あずさ2号
ちょうど高校生の頃、狩人という兄弟が歌う「あずさ2号」という曲が大ヒットしました。 鉄道をテーマにした歌謡曲は時々あったけれど、この「あずさ2号」の歌詞の中にある「8時ちょうどの、あずさ2号」というフレーズが、妙になじん…
昭和の思い出話
ちょうど高校生の頃、狩人という兄弟が歌う「あずさ2号」という曲が大ヒットしました。 鉄道をテーマにした歌謡曲は時々あったけれど、この「あずさ2号」の歌詞の中にある「8時ちょうどの、あずさ2号」というフレーズが、妙になじん…
昭和の思い出話
ニュースで見ましたが、週末に秩父で夜祭が行われたようですね。 秩父の夜祭は毎年12月の初めに行われるお祭りですが、子供の頃は、東上線沿線で秩父が身近だったこともあり、良く耳にした言葉でした。 私はお祭りそのものには興味が…
昭和の思い出話
津波で大きな被害を受けた岩手県の宮古市。 私が最初にこの町を訪れたのは、今から35年前の昭和51年(1976年)3月のことです。 高校受験が終わって卒業前に中学校の友達と3人で、ラサ工業の構内入換え用に残っていたC10と…
昭和の思い出話
前回のブログでご紹介したこの写真について、せっかくですからもう一度、詳しくお話します。 国鉄形気動車は(特急用は別として)、急行形と一般形の各系列を混成して列車の編成を組むことが可能でした。 房総地区の列車も、電化前は、…
昭和の思い出話
中学3年生の娘が勉強もしないでテレビばかり見ている。 うちには5人も子供がいて、上の3人は東京の大学に行って、何とか成人してくれて、彼女はその4番目だから、親ももう「勉強しろ」と言わない。 1人か2人の子供を一生懸命に育…
昭和の思い出話
前回の循環急行「みさき」「なぎさ」に続いて電化当時の外房線の話。 房総電化が完成し、東京地下駅から「わかしお」 「さざなみ」が発着するようになったときに小学校6年生だった私の目から見ると、確かに新型の183系特急電車や、…
昭和の思い出話
房総特急の陰に隠れてしまい、意外と知られていないのが急行列車の 「みさき」 と 「なぎさ」。 昭和47年7月の房総電化、東京地下駅開業で、「わかしお」「さざなみ」という特急列車が走り始めたのは皆さまもご存じのとおりですが…
昭和の思い出話
夜汽車の中でほとんど眠れぬまま函館についた木村君と私は、もっと眠りたい、と2人の意見が一致し、とりあえず、また列車に乗ることにした。 乗車したのは松前行の急行「松前」。江差へ行く急行「えさし」と併結されていて、途中の木古…
昭和の思い出話
翌朝、白老のユースホステルで目を覚ますと、朝食を済ませて近くにあるアイヌコタンを見た。 こういう民俗村には興味がなかったけど、歩いて行かれるところだったので、とりあえず行ってみた。 民族衣装を着たおばさん達の踊りを見てい…
昭和の思い出話
私の著書 いすみ鉄道公募社長 危機を乗り越える夢と戦略 には高校2年生の夏休みにバックパックをしょって北海道へ旅行したことを書きましたが、その時の旅行の詳しいお話です。 八ヶ岳へ文化祭の8ミリ映画を撮りに行ったのが7月下…
昭和の思い出話
総武流山電鉄に出かけてしばらくすると、夏休みに入った。 高校2年生の夏休みは部活に文化祭の準備、そして北海道旅行と実に多忙を極めた。 秋の文化祭の行事にクラスで何かやらなければいけないという課題があって、同級生の高瀬君と…
昭和の思い出話
お前の昭和の思い出は電車しかないのか? もう少し色気のある話をしろ。 そういう声が聞こえてくる昨今であるが、「青春イコール鉄道」と思われるのも癪だから、そうでないという証拠をお話せねばなるまい。 これは本には書いていない…
昭和の思い出話
私の著書 いすみ鉄道公募社長 危機を乗り切る夢と戦略 では、高校に入学した年、16歳の夏休みに、年齢をごまかして上野発の特急の食堂車でアルバイトをした話を書いた。 このブログは、私の著書をすでにお読みいただいた皆様に、さ…
昭和の思い出話
昭和51年4月、結局高校は地元の都立高校に入った。 そんなことだったから入学当初からとにかく私はしらけていた。 「しらけ鳥 飛んでゆく 南の空へ」 という歌がはやっていたが、全くその通りだった。 不本意ながら入った学校で…
昭和の思い出話
鉄道のことが気になって勉強に身が入らないといっても、そこは偏差値教育まっただ中の当時の中学3年生。学校全体が受験体制に入っているから、とにかく勉強しなければならない。そこで私は、できるだけ鉄道趣味に時間を割くことができる…
昭和の思い出話
よく、「はい、この先は、本を買ってお読みください。」という宣伝がありますが、この文章は、私の著書 「いすみ鉄道公募社長 危機を乗り越える夢と戦略」 をすでにご購読いただきましたお客様へ、さらに、その先を詳しくお話しするコ…
昭和の思い出話
浜松町からモノレールの始発に乗って羽田空港に着いた私は、他の乗客の流れにしたがって階段を上がって地上に出た。 当時の羽田は国際線が大きなスペースを占めていた空港だったが、モノレールの駅は狭くて暗く、今とは比べ物にならない…
昭和の思い出話
今から36年前の昭和50年4月。中学3年生になった私は春休みを利用して一人で北海道へ向かった。 目的は室蘭本線を走る日本で最後の蒸気機関車。 この年を最後に国鉄線上から蒸気機関車が消えると言われていたが、中学3年と言えば…
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