昭和50年代 ああ上野駅 その3

昭和51年4月、結局高校は地元の都立高校に入った。
そんなことだったから入学当初からとにかく私はしらけていた。
「しらけ鳥 飛んでゆく 南の空へ」
という歌がはやっていたが、全くその通りだった。
不本意ながら入った学校ではクラスメートともほとんど口をきくこともなく、学校が終わるとさっさとカバンを持って、いつものように上野駅へ行った。
国内輸送でも飛行機が徐々に列車を駆逐してきていた時代だったが、上野発の列車が向かう富山、新潟、秋田、花巻、青森などへは、飛行機は小型のプロペラ機:YS11だったから、新幹線工事が始まる前の上野駅はまだまだ活況を呈していた。
その頃、よく見に行ったのが上野を16時ちょうどに出る青森行の特急「はつかり5号」。
583系電車で運転されるこの列車は東京から札幌まで最速で連絡する列車として君臨していて、食堂車を組み入れた583系の堂々とした編成が風格があって格好良かった。
この列車で16時に上野を出ると、青森駅で午前0時の連絡船に接続し、午前4時に函館に到着。すぐに特急「北斗1号」に接続して、札幌には始業前の8時すぎに到着する。
つまり、夕方東京を出て次の日の朝に札幌に到着するこのコースが、北海道連絡の最速列車だった。
前年の昭和50年に私は飛行機に乗って日帰りで北海道旅行をしていたが、そんな私の目から見ても、北への旅立ちを感じるこの列車は、乗ってみたいと思わせる列車であった。
そんなある日、いつものように学校の帰りに「はつかり5号」の発車を見ていた。
上野駅の低いホームに発車のベルが鳴り響き、「青森行、特別急行列車 はつかり5号 発車です。」と最速列車にふさわしいアナウンスがホームに響き渡っていた。
当時の駅員さんは、実に雰囲気があるアナウンスをしていたものだが、そんな出発の儀式を見ていると、小学生数人が、ホームを走ってやってきた。
「あっ、特急だ。」
「格好良いなあ。」
「おい、大宮まで乗ってみようぜ!」
「そうだ、そうしよう。」
そう言って、小学生たちは私の目の前で「はつかり5号」に飛び乗った。
当時の国鉄は、車掌さんも大目に見てくれるのが普通で、急行や特急に上野―赤羽―大宮間を乗ることは、鉄道好きの子どもの遊びとしては当たり前のことだったのだ。
「はつかり5号」の扉が、子どもたちが飛び乗るのを待っていたかのようにピタリと閉まった。
そして、列車を送りだす構内アナウンスが、こう告げた。
「青森行 はつかり5号 発車です。 次の停車駅は うつのみや~、うつのみや~」
そう、北海道連絡の最速列車である「はつかり5号」は上野を出ると大宮には停車せず、100キロ先の宇都宮まで止まらない列車だったのだ。
「あ~あ」と思いながら、大宮まで乗るつもりの子供たちを乗せたはつかり5号が上野駅を出ていく姿を見送って、私はいつものように13番線から16:14に出る電気機関車が引く普通列車の福島行に赤羽まで乗車して帰路についたのだった。
あの時は、あまりにも一瞬の出来事で、彼らを止めることができなかったが、あの子供たちはその後どうなったであろうか。
今でも時々思い出すことがある。
もう40代半ばの良いお父さんになっていることだろう。
ひょっとしたらキハ52に乗りに来ているかもしれないな。
そう思うと、なんだか夢が膨らむような気がするのである。
≪ああ上野駅 終わり≫


583系特急列車。「はつかり」とこの「みちのく」は特に風格があった。