日帰り北海道旅行

今から36年前の昭和50年4月。中学3年生になった私は春休みを利用して一人で北海道へ向かった。
目的は室蘭本線を走る日本で最後の蒸気機関車。
この年を最後に国鉄線上から蒸気機関車が消えると言われていたが、中学3年と言えば高校受験の年。
当時は、今のような多様性の時代ではなく、偏差値教育真っ只中で、私の世代は国大協の共通一次試験の第1期生であるから、とてもじゃないけれど、旅行に行くなんて言える雰囲気ではない。
父も母も厳しい人だったから、自宅で時刻表を見ているだけで怒られた。
だから、私は、意を決して、親には内緒で北海道へ行くことにしたのである。
そして、そのためには飛行機乗って日帰りをしない限りは、親に知られずに北海道へ行くことは不可能だった。
当時、ワイドボディーのジェット機は就航していたものの、国内線の主役はナローボディーの飛行機で、日本航空はDC8、全日空はB727、東亜国内航空はYS11が代表機種だった。
国内旅行は鉄道で行くのが当たり前で、北海道へも東北本線の特急「はつかり」から青函連絡船、そして函館から特急「北斗」に乗り継いで行くのが最速と言われていた時代。もちろん、私も飛行機に乗った経験はなく、乗り方さえも知らなかった。
学校で1級上の先輩に、テレビドラマの「白い滑走路」の主人公で日本航空の機長を演じていた田宮次郎にあこがれている人がいて、私も飛行機の機種と形式の違いぐらいは基本常識として持っていたので、結構親しくしてもらっていた。
私は、その先輩が卒業する前、まだ中学2年の3学期に、この計画を事前に相談し、彼に飛行機の乗り方の手ほどきを受けた。
彼が言うには、飛行機には学割のようなスカイメイトという制度があって、前もって予約はできないけれど、空席があれば半額で乗ることができるらしい。そして、そのスカイメイトの制度を利用するためには、日本航空の営業所へ行って会員証を作ってもらわなければならないとのこと。
そこで私は、3月初旬に、日本航空の営業所の中で家から一番近かった新宿の京王プラザホテルの下にある事務所へ出かけ、会員証を作った。
次の日、その会員証をもって学校へ行き、先輩に見せると、「よし、よし」ということで、いよいよ飛行機の乗り方を伝授してもらった。
彼によると、切符のことは航空券と言い、スカイメイトの場合は旅行会社では買えないので空港の発券カウンターで購入する。そして、その切符に座席を記してもらう搭乗手続きというのが必要で、それをやらないと乗せてもらえないのだそうだ。
鉄道の常識しかない私は、切符があるのにどうして乗れないのか、購入時点で座席は決められないのか、などと何度か説明を求めたが、ついに理解できず、「とにかく搭乗手続きをすること」、と丸暗記した。
それから、私の日課となったのは、日本航空の「お出かけダイヤル」という自動応答システムの24時間電話に毎日のように電話をして、「本日の空席状況」を確認すること。
旅行センターでもらってきた航空時刻表を片手に、毎日毎日飽きもせずに「お出かけダイヤル」に電話をかけてテープ案内の音声を繰り返し聞くのである。
インターネットなど全くないアナログの時代、電話を掛けるだけで、飛行機の空席状況がリアルタイムで分かるだけでもすごいことだった。
「札幌行は、次の便に空席がございます。」と空席がある便名を連呼するだけの案内なのであるが、毎日かけていると、不思議なことに、空席がある便と、満席の便が、毎日だいたい同じであるという傾向に気づき、自分なりに分析してみると、この便であれば確実にスカイメイトで乗ることができるという確信を持てるようになったのである。
そうこうしている間に春休みになり、同じクラスで、やっぱり大の鉄道ファンだった柴山君が、北海道へのSL撮影旅行を許されて、上野駅から急行「十和田」で旅立っていった。
当初、柴山君と一緒に行く予定で計画していた北海道旅行だったが、私だけ親から「ダメ」と言われてしまい、最初は歯ぎしりするほど悔しい思いでいっぱいだったけれど、親に内緒で飛行機で北海道へ行く計画を立ててからは、精神的に余裕が持てて、柴山君にも上野駅で「俺の分まで楽しんで来いよな」と言って見送った。
日帰りで行くのは、もちろん彼にも内緒のことである。
さて、いよいよ明日は決行という日。私はすべての準備を整えて早めに床に就いた。
そして翌朝、板橋駅5時過ぎの赤羽線の初電で羽田空港に向かったのである。
(日帰り北海道旅行 つづく)

この時使用した日本航空の時刻表。塾の行き帰りに旅行センターへ立ち寄って毎月時刻表をもらうのが楽しみだった。(捨てられずに、今でも私のコレクションの一つとなっている。)