なのにあなたは京都へ行くの・・・

私の著書 いすみ鉄道公募社長 危機を乗り切る夢と戦略 では、高校に入学した年、16歳の夏休みに、年齢をごまかして上野発の特急の食堂車でアルバイトをした話を書いた。
このブログは、私の著書をすでにお読みいただいた皆様に、さらに付加価値を付けていただけるように、本の内容からさらに先のことをお話しするコーナー。
ひと夏、ぶっ続けでアルバイトをして、手元に10数万円のお金が残った私は、大金を持って少し気が大きくなったのか、放浪癖が芽生え始めたのだった。
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「なのにあなたは京都へ行くの、京都の街はそれほどいいの・・・」
昔、こういう歌が流行っていた。
東京で生まれ育った私は、なぜか京都にあこがれた。
ちょうどその時、京都市電がそろそろ廃止されるという話が出ていた。
しらけた高校生だった私は、両親の前で、あえて勉強することをせず、頭の中にはいつでも時刻表通りに列車が規則正しく走り回っていた。
そんなときに、日本で初めて市電が走った京都から、いよいよその市電が消えるという話を聞いて、当然のように、いたって自然な形で私の京都通いが始まった。
私の京都への通い方はこうだった。
土曜日、カメラと着替えをカバンに詰めて、とりあえず学校へ行く。
そして2時間ぐらい授業を受けたのちに自主休校を宣言して、学校を抜け出す。
コソコソするのではなく、堂々と校門を抜け出ると、先生たちも何も不思議に思わないようで、呼び止められることもなく、私はそのまま浜松町から羽田空港へ向かった。
新幹線は高いし、学校の事務室への学割の申請も面倒だったので、決まってお昼過ぎの大阪行の便に、前の年に作った会員証を使ってスカイメイトで乗った。
午前中に学校で授業を受けていたのに、夕方には京都市内にいる自分がいた。
このギャップが心地よかった。
土曜の晩には、京都市内の古い町屋を改装したユースホステルに泊まり、翌日の日曜日は京都中を歩き回って1日撮影。
そして、夜、京都を出て、東海道本線の普通列車で大垣まで来て、大垣から東京行の夜行列車に乗るのである。
この列車、いわゆる「大垣夜行」というやつで、東京発の下り大垣行は当時から混雑していたが、大垣発の上りの東京行はいつもガラガラだった。
1度、東名高速バスのドリーム号に乗ったが、座席が狭く、横になることができなかったので、以来、165系電車のボックスシートを占領する方を選んだ。
青春18きっぷなどない時代だったが、東京―大阪間ぐらいの距離であれば、旅費を浮かすためには普通乗車券だけで乗れる各駅停車の列車に乗ることは苦にはならなかった。
東京駅には月曜日の早朝、確か午前4時40分ごろに到着。
いったん自宅に帰り、着替えをして、カバンの中身を入れ替えて、学校へ行くというパターンだった。
カメラと時刻表を持っていたからだろうか。土曜日の朝、学校へ行くと言って家を出たまま帰宅せず、月曜の朝帰りをする息子に両親は何も言わなかった。
高校1年生の後半から2年生にかけて、このパターンを5~6回も繰り返すと、京都市電だけでなく、梅小路も、嵐電も叡電も山陰本線の保津峡もすべて乗りつくし、十分お腹がいっぱいになったのである。


京都市電と叡電が平面クロスする元田中にて。
叡電の電車は京都市電のようなピューゲルではなく、昔ながらのポールで集電するポール電車だった。


この元田中には旗振りのおじさんがいて、叡電の電車が接近すると、交通整理をして車や歩行者を止めていた。
京都市電は段階的に廃止され、最後に残った路線は昭和53年に完全に廃止されたが、「おなか一杯」になった私は、高校2年生の昭和52年を最後に、何となく京都通いを終了した。