世の中とのズレ

先週、新幹線の運転士さんのグループがトキめき鉄道に研修にいらっしゃいました。

うちの若手のプロパー社員たちとの座談会のような勉強会です。

トキ鉄の若手社員にとってみたら新幹線の運転士さんたちは憧れの対象ですから、いろいろお話をお伺いするだけで大変勉強になるのはもちろんですが、JRの新幹線の運転士さんたちがトキ鉄に来て何の研修になるのか、私は不思議だったのですが、お話をお聞きして理解しました。

新幹線の運転士さんはカギがかけられた運転室の中でのお仕事です。
列車に向かうときも専用の通路を通って行きますし、お客様が乗車されるよりも前に列車の中にいますから、お客様と接する機会がない。
また駅などで地域住民の皆様方と接する機会もない。
それに対してトキ鉄の運転士はワンマン運転でお客様に接することができる。
駅や地域で住民の皆様方と接する機会も多い。
そういう部分が自分たちには欠けているので、それを教えてほしいということでした。
実に素直で正直であります。

もう一つ正直だったのは私のブログを以前から読まれていて、私がJRという会社に必ずしも良い印象を持っていないということを承知の上で、いったい自分たちはどうして行ったらよいのだろうかという話を聞きたいと言われるのですから、JRの社員に話をすることなど何もない! と言うこともできず、彼らの素直さに感銘を受けたのであります。

会合の席上です。

最後は皆さんで記念撮影。

私と春田さんは国鉄時代の思い出話ばかりしてしまいましたが、JRになってから33年も経っていますから、国鉄時代を知る社員もほんの少しになってきているようです。

ではなぜ国鉄時代の話をしたのかというと、国鉄時代はストばかりやっていました。
国鉄は昭和20年代に大陸からの復員兵の受け皿になりました。
私が子供のころというのは友達のお父さんや近所のおじさん、親戚のおじさんに戦争経験者がたくさんいました。
シベリアに抑留された人たちもたくさんいて、当時の社交場だった街角や銭湯などで、近所の子供を捕まえては説教するおじさんたちがたくさんいました。

そういう人たちから聞いた話を思い出すと、シベリアに抑留されていた旧日本兵たちはソビエト共産党の教育を受けて、赤く染まった人から帰国を許されました。
7年もソビエトに抑留されたおじさんなんかは「俺は日本男児として7年も頑張ったんだ。中にはすぐに共産主義の犬になったやつもいたけど、そういうやつらは2~3年で帰国できたんだ。」というような話を聞かされました。

で、そういう復員兵たちの雇用の受け皿になったのが当時の国鉄でしたから、国鉄の現場は見る見る真っ赤に染まって行って、昭和20年代後半には労働闘争が盛んに行われるようになりました。

その労働運動が学生運動に飛び火して、昭和30年代半ばになると全国的な規模で闘争が行われました。
最初のころは、それでも国民は受け入れていたのです。
なぜならみんな貧しかったし、権力から理不尽な扱いを受けてきましたから、国鉄が闘争してくれることで労働条件もよくなる。つまり労働者の代表だったわけです。

ところが昭和40年代に入り、世の中がだんだんと豊かになってきました。
国民生活も向上してきて、給与所得も上がりました。
そうなると国鉄の組合は賃上げなどの条件闘争ではなくて、「スト権スト」という手法に転換していきました。
当時は公務員や団体職員にはスト権は認められていなかったので、そのスト権を勝ち取ろうというためのストです。

そうなって来ると、だんだんと国民の理解が得られなくなってきます。

昭和40年代は郊外にベッドタウンがたくさん建設され、労働者たちはだんだんと長距離通勤をするようになりました。にもかかわらず、国鉄は自分たちの権利を主張する闘争に明け暮れましたので、国民から完全に見放されました。

でも、そういうことに気が付かなかったんですね。

国民の気持ちが自分たちから離れていっているということに組合の幹部たちは気が付かなかった。
もしかしたら気が付いていたのかもしれないけれど、取り合わなかったのかもしれません。
なぜなら、法律を変える要求ですから、自分たちの闘争相手は政府与党に変わっていったからです。

しまいには無期限長期ストライキに入ります。
記憶にありますが、数日間電車が動かない。
なぜそんなことをしたのかというと、国の大動脈が止まれば国民生活に大きな影響が出る。そうすれば政府も自分たちの要求を呑むだろうという考えからです。

利用者である国民を無視した方針で、利用者の心は国鉄から離れてしまったのですが、このズレに組合幹部たちは気が付かなかったのです。
つまり、利用者の求めていることを提供するという仕事の目的と、利用者を困らせることで自分たちの要求を通すという方針との間にある大きなズレに気が付かなかったのです。

それともう一つのズレ。
それは、当時すでに国鉄は輸送の大動脈ではありませんでした。
貨物輸送はトラックが主流になっていましたし、国内線にもジャンボジェットが飛ぶ時代になっていたのに、自分たちが国の輸送を支えていると思い込んでいた。
これも大きなズレでした。

国鉄のような組織を民営化するというのは当時の世の中の流れでしたが、「分割」というのは完全に組合組織の弱体化です。
その後民営化された電電公社や道路公団のありかたを見ても、国鉄の組合がああいう闘争をやらなければ、全国を6つに分割して、さらに旅客と貨物で上下を分離するようなことにはならなかったと私は考えていますから、現在の北海道や四国の経営難の大本はそこだったわけです。

さてさて、ローカル線対策も同じことが言えます。
これは国鉄だけじゃなくて全国の地域にも言えることですが、赤字ローカル線を廃止させないために「地域の足を守ろう」のスローガンの下、「乗って残そう」という乗車促進運動が全国で行われました。
世の中すでに車社会になりつつあった時代に、「乗って残そう」はなかなか現実的ではありませんでした。つまり、ここにもズレがあったのです。
だから、その結果としてローカル線はみんな廃止になっていきました。

今のJRも国民、利用者からはずいぶんズレがあると思います。

例えば新幹線ができたから在来線はいらないという考え方。
東海道新幹線ができて在来線特急が無くなり、東北上越新幹線ができて在来線特急が無くなる。
最近では在来線そのものを手放してしまう。
トキ鉄もそういう経緯で生まれた路線ですが、そうやってJRは儲かるところだけをやろうとするわけです。

では、儲かるところというのは何かというと、高額な運賃料金をいただけるところです。
新幹線ができる以前に比べて切符の値段が高額化します。

そりゃあ、速くなったんだから当然でしょう。

これがJRの言い分です。

でも、お客様としては速く行く必要がある人たちばかりではありません。
多少時間がかかってもよいから安い方が良いという人たちもいます。
でも、在来線の特急を辞めてしまうということは、「高い金を払って新幹線に乗れ!」ということですから、お客様の要求とはズレが生じます。

その結果として、今日の高速バスブームがあるのです。

寝台列車もそうですね。
新幹線なら1列車で1200人ものお客様を3時間で運んでしまいます。
1つの列車が1日に1往復半、2往復できます。
これに対して寝台列車は一晩かけて300人ほどのお客様を運びます。
到着したら次の運転まで車庫でお昼寝です。
実に効率が悪い。
だから、寝台列車がどんどん廃止になりました。

では、効率が悪いというのはどういうことかというと、あくまでも経営効率のお話であって、お客様にとっての効率ではない。
お客様にしてみたら寝台列車は寝ている間に移動できて、翌日フルに使えますから実に効率が良くてありがたい存在です。
お気づきのようにここにもJRとお客様との間にズレがあるわけですが、会社はそのズレを考慮することなく無視したのです。

現在、新宿や都会各所から全国いたるところに向けて夜行バスが出ています。
かつて夜行列車が走っていた目的地以上に、あるいは当時の国鉄の座席数以上に夜行バスが運転されているということは、そこにそれだけの需要がある証明ですが、JRは「それは俺たちの仕事じゃない。」と無視したのです。

私は、こういうズレをいかに修正していくのが商売だと考えています。
長年同じような商品を提供していると、世の中も変わりますし顧客のし好も変化します。
つまり、自分たちが提供する商品とお客様との間にズレが生じ始めます。

そのズレにいかに早く、敏感に気が付いて、お客様に合わせて修正していくかが商売でしょう。

でも、もしかしたらJRのような会社は、自分たちの都合で商品を作って、自分たちの都合で売っていて、お客様の気持ちとのズレを考えていないのかもしれませんし、あるいはもっと乱暴に、お客が自分たちの提供する商品に合わせるべきだと考えているのかもしれません。

いつの時代も世の中は日々変わっていきます。
そして顧客志向も変わっていく。

趣味の商品のような特殊なものは別として、輸送のような商品は広く一般の皆様方に受け入れられるものでなければなりませんから、「自分たちが作る商品を黙って買え」的な商売はいずれ立ちいかなくなると私は考えます。

そういう私自身もおじいさんになって来ると、若者たちの考え方からズレてきているかもしれません。
まず自分がズレていることに気が付いて、そのズレをいち早く修正していくこと。

そのためには日々アンテナを張り巡らせて、勉強しなければならないと思うのであります。

あらゆるものを他山の石としなければなりません。

JRの皆様、トキ鉄でお勉強になりましたでしょうか?