循環急行の時代

昨日は房総夏ダイヤの話をしました。

 

当時の房総半島は、海水浴の需要が多く、千葉県は国道などの整備が遅れて、昭和40年代でも房総半島の幹線道路は砂利道が多く残っていましたから、そういう時代に海水浴へ出かけようと思えば、当然、鉄道がその威力を発揮していました。

海水浴ばかりでなく、南房総のお花畑や鋸山の景勝地など、当時は気軽に遠くへ出かけることができない時代でしたから、東京から近い房総半島には大きな観光需要があって、夏ダイヤはもちろんですが、休日ダイヤや需要に応じた臨時列車などがたくさん走っていたのです。

 

昨日お話しいたしましたのは1972年7月の外房線の電化完成で、それまで内房線は電車、外房線はディーゼルカーだったものが、内房、外房共に電車が走るようになりました。そして、誕生したのが両線を通して房総一周を走る循環急行「みさき」「なぎさ」です。

 

 

この電車は新宿・両国から房総半島をぐるっと回って新宿・両国へ戻る列車で循環急行と呼ばれていました。

都内から外房を先に回って内房を通って都内へ戻る列車を「みさき」、その逆コースで内房を先に回って、外房経由で都内へ戻る列車を「なぎさ」といいました。

 

 

 

電化2年後の1974年7月号の房総夏ダイヤです。

7:15発の特急「わかしお1号」は新宿発。その少し前6:50発の急行「みさき1号」も新宿発です。

東京発は午前6時ちょうどの快速「白い砂1号」。その後も東京発は快速「白い砂」が続き、東京発の特急は9時ちょうど発の「わかしお3号」からになりますね。

房総方面への朝の列車が急行、特急共に新宿発ということは、都内西部からの利便性でしょうか。当時板橋に住んでいた私も、新宿発は便利で何度も利用しました。

私が気になるのが「わかしお1号」で、実はこの電車、茂原も上総一ノ宮も通過しています。

そういう駅へ行く人たちは急行や快速に任せて、東京からまっしぐらに大原から先の海水浴場を目指す役割があったことがわかります。

 

ところで急行列車ですが、外房線で安房鴨川に到着すると、急行「みさき」はそのまま内房線に入り東京方面へ向かいます。

例えば両国を8:04に出る急行「みさき2号」は時刻表をよく見ると、こう書いてありますね。

 

 

勝浦ー館山間普通列車。館山着1128、両国着1334

 

10:27に安房鴨川に到着した列車は、10数分停車したのち、今度は内房線の列車となって10:39に発車します。

この列車は館山まで普通列車として走り、館山から急行「みさき2号」に戻って13:34に両国に戻っていることがわかります。

つまり、この「みさき2号」は両国発両国行。勝浦、安房鴨川、館山と廻って両国へ戻る循環列車ということになります。

 

面白いですねえ。

電車って方向性があるんですけど、この循環急行のようにティアードロップで一周廻って戻ってくると、編成全体が逆向きになってしまうと思いますが、どうしていたんでしょうね。

 

 

 

たぶん、13:34に両国に到着した「みさき2号」は、今度は14:30発の「なぎさ4号」となって、木更津、館山、安房鴨川、勝浦と廻って19:53に両国へ戻りますから、電車の編成も元に戻るので、そういう感じで上手に管理していたのでしょう。

このように時刻表を見ただけで、当時の現場や鉄道会社(国鉄)の一生懸命さを感じることができるのも面白いと思いますよ。

 

さて、この循環急行ですが、勝浦から館山の間は普通列車として運転されていました。

急行列車が末端区間で普通列車として運転することが多く見られたのも昭和の国鉄の特徴で、実はいすみ鉄道の昭和の観光急行列車が大多喜から先、上総中野まで普通列車として運転しているのも、この昭和の急行列車の再現なのであります。

 

ではなぜ、勝浦ー館山間が普通列車として運転していたかというと、こうすることで館山ー安房鴨川間の列車の運転間隔をほぼ1時間に1本確保できるようになるからで、地元の利便性のために国鉄が配慮していたと思いますが、実はなぜ国鉄が「急行料金を取らない」などというサービスをしていたかというと、これにはからくりがあって、東京から来ると外房線は御宿で、内房線は竹岡で100㎞を超えるんです。つまり御宿、竹岡で急行料金がポン!っと跳ね上がる。だから、そこまで急行列車で来れば、あとは各駅にしても売り上げは変わらないということなのです。

ちなみに当時の急行料金は100㎞まで100円、101㎞~200㎞まで200円と大原で降りずに御宿まで行くと倍になったんです。

 

本当にサービスをするのなら大原まで急行で大原から先を普通列車扱いにすれば、停車駅は浪花が増えるだけで、たいして所要時間には影響しないし、お客さんは得する思いますが、まあ、そんなことはするはずもありませんね。

でも、売り上げが変わらずに、お客様にとっては利便性が向上するのですから、これは一つのサービスとして、今でも特急列車の一部区間で見られますね。地元のお客様にとっては乗り得な列車ということになります。

 

 

 

さて、当時の急行券です。

上が昭和46年1月で、下が昭和48年12月。

違いが分かりますか?

 

上は外房電化前のもので下が電化後。

上総興津駅発行の急行券ですが、外房電化後は上記の通り、急行列車の勝浦ー館山間が普通列車扱いになってしまいましたので、つまりは上総興津には急行列車が来なくなりました。

ということで、房総一周の急行「なぎさ」で東京方面へ帰ろうとすると、上総興津駅で急行券を買っても、勝浦から200㎞区間と表示される急行券を売るようになったということです。

 

まあ、千葉県の鉄道を語るなら、せめてこのぐらいの知識は持っていないと偉そうなことは言えないということでありますが、中学生が1冊の時刻表をここまで読み込んでいたということを、「勉強しないで時刻表ばかり見て何やってる。」と目くじらを立てていた私の親や学校の先生は知る由もなかった、ということなのであります。

 

皆さんも自分の子供が夢中になっていることがあったら、批判することをせずに、ぜひ、温かく見守ってあげてください。

 

千葉の鉄道基礎知識のお話でした。

 

(たぶん、つづく)