房総夏ダイヤの話

夏が来れば思い出す・・・・

 

そろそろGWを迎える季節になりましたが、毎年暖かい季節になると思い出すのが臨時列車。

以前にも何度か話しましたが、昭和30年ごろから昭和60年ごろまで、30数年の間、房総半島の国鉄線には毎年夏になると「夏ダイヤ」と呼ばれる特別のダイヤがあり、臨時列車が多数運転されていました。

 

その理由はもちろん「海水浴」などのレジャー用であって、毎年夏休みになると、千葉の海水浴場は「イモ洗い」と呼ばれるほど混雑が発生しました。

 

私は昭和40年代にはほぼ毎年夏休みになると勝浦のおばあちゃんの家に遊びに行っていて、その頃はとにかく汽車が混んでいました。

汽車というのは、もちろん蒸気機関車が客車を引いていた時代でありましたが、ディーゼルカーに代わり、電車になるという、わずか数年の間に大きな変遷を遂げたのも事実で、今思い出せば、目まぐるしいほどに世の中が変わっていった時代でした。

 

さて、同じ房総半島でも国鉄時代から今に至るまで、交通の優先順位は常に内房側にありまして、外房側は置いてけぼりを食っていました。

というのも、千葉から先の電化は当然のように内房側からスタートしていたからで、1968年(昭和43年)に千葉から木更津までの電化が完成。その翌年の1969年(昭和44年)には木更津から先の千倉まで電化が完成しました。この昭和44年の電化完成で、千葉から蒸気機関車の活躍が終了したのですが、このころ東京の小学生だった私は、岩井の海水浴場へ臨海学校へ出かけたりしていました。

さて、1971年(昭和46年)には千倉から安房鴨川までの電化が完成し、内房線は千葉から木更津廻りで安房鴨川まで電車になったにもかかわらず、外房線は相変わらずディーゼルカーで、子供心に「なんだかな~」と感じていました。

 

写真家の結解学先生が、「社長、房総の鉄道で私が撮った写真、公開して使ってよいよ。」と温かなお言葉をいただいたので拝見してみると、昭和45~46年までの急行列車の写真がありました。

 

 

両国駅で発車を待つ「そと房」と「うち房」です。

「そと房」はくすんだディーゼルカーなのに、「うち房」はピカピカの電車です。

よく見ると「うち房」の方にはクーラーもついています。

これが、子供心に私が感じていた「なんだかな~」でありますが、つまりは当時の内と外の格差なのであります。

 

なぜ、この1枚の写真を見ただけで昭和45年から46年だとわかるかというと、外房線が安房鴨川まで電化されたのが昭和47年で、それを機にディーゼルカーがなくなり特急列車が走り初めまして、「うち房」「そと房」という急行列車の名称が「みさき」「なぎさ」に変更されたものですから、昭和47年以降というのはあり得ませんね。

それと、昭和44年まで、蒸気機関車が走っていた時代は、機関車を先頭に両国駅に到着した列車は、その機関車を切り離して反対側に付け替えるために入れ替え用の線路が必要だったんです。実はこの写真で「うち房」の電車が止まっている線路がその入れ替え用の線路で、そのさらに右側にもう一本線路があって、そこにホームがあったんです。

でも、蒸気機関車の活躍が終わった昭和44年の冬に、一本線路をつぶして仮設ホームを作りました。「うち房」が止まっているホームがその木組みの仮設ホームだということがわかります。ではなぜ仮設ホームが必要だったかというと、両国駅の構内の横のほうに、東京地下駅へ向かう快速電車が地下へ入るためのトンネルの出入口を作る必要があって、両国駅構内を縮小する必要があったからで、47年にはその地下路線が開業していますから、両国駅でこの光景が見られたのは昭和45年・46年の2年間だけということなのです。

結解学先生は、私より2歳ぐらい年上ですが、お兄さんの結解喜幸先生の影響で、小学生のころからこのような写真を撮影されていらしたということなのです。すごいなあ。

 

 

こちらが昭和44年夏の両国駅です。

「そと房」と「うち房」の列車の間に、もう一本線路があるのがご覧いただけると思います。

ヘッドマークもこのころまでは大型羽根つき台座でしたが、蒸気機関車が廃止されたころを境に、小型のものに代わっていることがわかりますね。

 

ちなみに、なぜ外房、内房ではなくて、「そと房」「うち房」とひらがな表記をしていたのかというと、当時は房総東線、房総西線と呼ばれていましたが、千葉県の人は皆さん「がいぼう」「ないぼう」と呼んでいたのです。

当時の国鉄は、昭和47年の外房電化を機に、路線名を外房線、内房線と改める予定でしたので、この当時、あえて列車名を「そと房」「うち房」とすることで、その呼称の定着を図ろうと考えていたのでした。

 

 

そして昭和47年。外房側にもついに電化が完成し、千葉県初の特急電車が走り始めました。

嬉しかったなあ。

当時の日本人は、みなさん、古いものを捨てて新しくすることが素晴らしいと思っていたのです。

 

 

でも、外房線、内房線となったにもかかわらず、急行列車はなぜか「みさき」「なぎさ」。

わずか数年で「外房」「内房」に名前を変えましたので、今となっては貴重なカットです。

はい、小学生が線路の中に立ち入って撮影しました。ごめんなさい。

 

ということで、夏ダイヤの話に戻りますが、昭和43年の木更津電化、44年の千倉電化、46年の鴨川電化、47年の外房電化と、毎年のように電化の延伸が行われていましたが、これらすべてが7月に電化開業、ダイヤ改正が行われています。つまり、夏休みの高需要期に何とか間に合わせようと必死になっていたことがうかがわれるというものですが、それだけ、房総の夏の輸送というのは大変だったことがわかります。

 

 

手元の資料として、昭和51年の8月号がありますが、表紙に大きく「房総各線夏ダイヤと時刻修正」と書かれています。

JRになってからすぐになくなりましたが、外房電化から数年、たぶんこのころが夏季輸送のピークだったと思います。

 

 

外房線の朝の下りの時刻です。

 

7時、8時、9時と1時間ヘッドでグリーン車を連結した「わかしお」安房鴨川行が東京駅を発車しています。

ところが、それだけでは輸送力が不足するために、7:04に快速「白い砂1号」が。7:35に快速「白い砂2号」(日曜運転)が出ています。

8時の「わかしお」の後にも、8:25に快速「白い砂3号」が、8:44に快速「白い砂4号」(日曜運転)が出ています。

このように特急1本に対して、それを補完する快速列車が2本出ているというのが、当時の房総夏ダイヤで、つまり列車はそれだけ混んでいたということなのであります。

 

「昔はすごかったんだぞ。」

と、房総半島のおじいさんたちは、今でも二言目にはそう言いますが、それって、こういうことなのです。

 

 

昭和46年夏。新宿駅で急行「うち房」に乗り込む人たち。

ちびっこも含めて、押すな押すなの大混雑です。

 

 

10時以降の続きを見てみましょう。

10時の特急の次は12時で、その間に急行「外房1号」が設定されています。

14時と16時の間にも急行「外房2号」がありますね。

東京から100㎞程度の路線で、特急、急行、快速を走らせるところはやはり無理があったのかもしれませんが、うまくかわしているようです。

ちなみに、このときは外房電化から4年ですが、すでに「みさき」「なぎさ」ではなくなって、「内房」「外房」と漢字表記になっていたこともわかります。

 

夜はこんな感じ。

17時に特急はなく、18時に急行が1本。そして最終の特急は19時ですね。

朝高夕低とでも言いましょうか、このダイヤを見る限り、東京の人たちを房総半島に送り込むことを目的としていたことがわかります。

 

その証拠に、上り列車のダイヤは、

 

 

 

 

こちらは朝低夕高型。

お昼頃から特急列車を補完する「快速」が幅を利かせています。

そして、特筆すべきは、18時台の特急で鴨川ー大原間から東京へ帰る直通列車は終わってしまうということ。

皆さん、日帰りで海水浴へいらっしゃるのですから、朝東京方面から来て、夕方にお帰りになるのは理解できますが、東京方面の列車がずいぶん早く終わっちゃうと思いませんか。

 

実はその理由は、当時は日帰りで帰る人たちはだいたい夕方までに帰路について、それよりも遅くまでいる人たちは、みなさん宿泊されていたんですね。だから、19時になったらもう東京方面へ帰れなくても、それでよかったということなのです。

 

時刻表というのは、こうやって見ると実に面白い読書ができるんです。

必要なところをさっと調べるには今の時代ネットが当たり前ですが、やっぱり、時刻表というものは1年に2冊ぐらいは買いたいものですね。

ネットだとダイヤ改正があるとそれ以前のものが調べられなくなりますが、時刻表なら40年が経過しても、こうして楽しめるのですから。

 

千葉の交通を語るには、せめてこのぐらいの知識は持っていないと、鉄道会社にバカにされるのです。