いろいろな見解。

最近は経済雑誌にも「地域おこし」や「地方創生」、「地域活性化」というのがテーマとしてよく上がっています。
その中で、最近の東洋経済の記事に、「コンサルが暗躍して地方創生を食い物にしている」というような記事が掲載されていましたが、地域に身を投じで奮闘している身としては、「本当にそうなのだろうか?」という疑問が湧いていました。
そんな時、私の友人で、地域再生やローカル線の活性化をお手伝いしている千葉市在住の澤田敬光さんがFACEBOOKにこんな投稿をされていました。
JR三江線の廃止を表明したことについての彼の見解です。
実際に地域に係わっていらっしゃるプロのコンサルタントのご意見です。
なぜか私の名前も出てきます。(笑)
世の中には色々な見解があるのは事実ですが、きちんとロジカルになっていないものが実はとても多くて、それが地域活性化には多く見受けられる。
都会の大企業では当たり前のことが、地方へ行くとまるでできていない。
それが彼の見解の骨子です。
このレポートを読まれたら澤田さんに仕事を頼みたいという方も出てくると思いますが、皆様は如何思われますでしょうか?
都会の人ほど澤田さんに仕事を頼みたくなるでしょうが、田舎の人は頼みたくないでしょうね。
自分はどちら側にいるのかを知るための一つのメジャーになるレポートでもあると思います。
お断りしておきますが、彼は私の友人で、変に馬が合う人ですから、一癖も二癖もあって、一筋縄ではいかない男ですが、仕事面では優秀です。
それでは、じっくりとお読みください。
長いですよ。
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【ローカル線はなぜ活性化しないのか/三江線廃止に思う所】

 広島と島根を結ぶ三江線について、JR西日本は廃止を含めた論議をスタートしたいと、県などに伝えたとの報道が出ています。

http://mainichi.jp/select/news/20151016k0000e040226000c.html

この件について「今まで何も利用者向上策をしていなかったじゃないか」という指摘がネットに散見されます。

ただ、私も一時三江線にはかかわっていましたのでコメントすると、決して「何もしていなかった」という事は無く、地元の方なりに一生懸命やられていたという事は是非評価してあげてほしいと思います。

しかし、「頑張っている」というイデオロギー論と精神論で終始してしまっていたという、現実も見なくてはならないのではないでしょうか。

この点について本日はコメントします。

 

■イデオロギー論と精神論に終始しがちな存続運動

 私も鉄道の活性化というのを事業にしていますし、そもそも鉄道好きで始めた仕事なので、出来れば廃止は避けたいとは思います。

 一方で、必ずしも存続ありきという考えには否定的です。

 鉄道としての使命を果たせていない鉄道は廃止すべきですし、鉄道としての使命を果たせていないのに存続したいのなら赤字を誰が負担するのかという現実的な論議と、それを負担してまで存続すべきなのかという価値を考えるべきです。

しかし、とかくローカル線の活性化はイデオロギー論と精神論で「残すべきだ」とはいう物の、現実論を無視した論議になりがちです。

こう言った所は大体残ることができません。

例えば、バス転換にも反対する人がいます。

その理由として、老人など車を運転できない人が病院に行けなくなるとか。

しかし、足腰弱って車も運転できない老人に駅まで数km歩いて来させて、ついた駅から数km先の病院に行かせることが現実的でしょうか?

それより、集落単位くらいで回ってくる地域のバスや、家の前までタクシー呼んで何人かで乗り合って病院まで行く方がよほど便利ではないでしょうか?

 不便で赤字の鉄道に年間何億円も投資する事より、タクシー代を行政が負担する方が実は合理的です。

なのに、どうして不便な鉄道をわざわざ残せというのでしょう?

つまりこの論議はなぜ残す必要があるのかという論議ではなく、残すために理由並べているだけなんです。

そうやって不便でコストの高い鉄道をわざわざ残して、結局誰が利用するのでしょう?

また、残すのなら赤字を誰が負担するのかという論議も当然セットで必要です。

しかし大体この手の所は「鉄道会社、行政全部よろしく」型の運動です。

ですが、鉄道会社は公共性が高いとはいえ、決して慈善事業ではありません。

その大原則を忘れて、「公共企業の責任だろう」みたいことやると、残れないです。

たしかに国鉄分割民営化前後で多くの地方路線が第三セクターになりました。

これはJRから引き取って地元自治体などが責任取りますという方式です。

しかし、こうやって残したところも、「残せ残せ」と騒いだ人たちは残ったら目標達成とばかりにあとほったらかしなんです。

 「次の世代を担う子ども立ちのために」と残したのに、その子供たちは車です。

そして「交通弱者のために残せ」と運動した人たちが高齢化して、自分たちが交通弱者になって利用しているのか・・・

大体病院とかの送り迎えは家族が車でやっているわけです。

 結果、第三セクター化して十数年経て、「誰がこんなところ残したんだ」みたいな事になっている第三セクター鉄道が各地にあるわけです。

こんな存続運動が全国で起きて、なんとも笑うに笑えない極め付けがこうです。

 「存続決起集会」とか開いて、「乗って残そう!」とシュプレヒコールを上げて、みんな車で帰って行くという・・・

「あれ、いま乗って残そうと言いませんでしたっけ?」みたいな笑うに笑えないことが全国各地で起きます。

 国鉄時代にも地方から運輸省(現在の国土交通省)に廃止反対だと地方の首長が陳情にやって来て、「今日は何で来ましたか」と聞くと「飛行機です」と、「結局鉄道は使わないんですよね」とか、あるいは「住民が貸切バス何台も仕立てて陳情に来ました」と、「結局バスの方便利ですよね」と、わざわざアピールしに行ってしまうという、なんとも笑えないことが各地で起きます。

こんな状態では残れるわけがありません。

これらはいずれも残るための論議ではなく、何となく頑張っている感に終始した、実態の無い運動です。

 

■鉄道を廃止すれば街は廃れても、鉄道が残っても街は発展しない

 とかく良く出る論議です。

 私も北海道出身ですから、国鉄改革で多くの路線が廃止になって来たのを目の当たりにしました。

そして、本当に鉄道廃止になった街の廃れっぷりってすごいんです。

 本当、ゴーストタウンみたいになります。

かつては駅があり、商店街があり、小さいながらスナックやキャバレーもあったり、ここに町の輝きがあったんだろうなという所も、鉄道廃止すると廃墟になってしまい、本当ひどい状況になります。

だからと、「鉄道を廃止したら街が廃れる」という人がいますが、しかしこう言う人は「鉄道が残ったら町は発展するの?」という論議はしません。

そして、鉄道があるというだけでは街は発展しません。

だから利用者減少で廃止になるんですね。

確かに鉄道が無くなれば街の衰退が加速するかもしれないですが、鉄道があるというだけでは発展しないんです。

だから今まで発展していないんです。

 三江線も全く何もやっていないとは言いませんが、街が発展するほど大きなことは何もやっていないわけです。

ここにきて廃止と聞いて「街の発展」論を出してくるのなら、「ならどうして今まで発展するような事はしなかったんですか?」と思う次第です。

 

■基本的なプロジェクト遂行論ではない

何事もそうなんですが、物の考え方って2つの方向性があると思うのです。

 例えば私は昔、某携帯キャリアで勤めていていました。

そこでは全国に基地局(電波塔)何万局建てるなどと言う具体的な目標が掲げられます。

その目標を達成するためには、何をしなければならないのか、何をいつまでにしなければならないのか、予算の確保はどうするのか、人員はどうするのかなどの詳細な事業計画が立てられ、その計画に基づき各部署がミッションを遂行します。

どんな仕事でも基本的な流れかと思います。

つまり、初めに「目標」があり、その目標を達成するにはどうするのかという方向の物の考え方です。

 対して、ローカル線の活性化は真逆の方向から始まります。

それは自分たちは何をしたいのかから始まり、結果が付いて来てくれないかなぁという方向から物を考えるわけです。

 例えば、廃止論議が起きるとみんなで駅の掃除を始めたりします。

もちろん汚い駅より綺麗な駅の方が良いに決まっていますが、駅を掃除したからってお客様が増えるわけではないですし、経営が改善するわけでもありません。

そのほかにも色々なイベント事が多数起きるのですが、それを行うことでどうして廃止を阻止できるのか、そういった論理が無いのが活性化や存続運動の特徴です。

ですから三江線の廃止という話題にもネットでは「こんなに頑張っていたのに」という精神論は出ても、その取り組みがどれだけ効果があったのか、赤字をどれだけ削減させるだけの効果があったのかという結果では誰も見ないというのが特徴です。

これは三江線に限らず、どこでも起きがちな現象です。

 結果、経営的側面から見たJR西日本は「活性化策など色々やられているようだが全く効果が出ていない」と、自治体に対して今回の申し入れになったようです。

 

もちろん、「がんばっている」感が無意味とは言いません。

 住民の盛り上がりと言う意味ではそういった草の根活動のスタートは重要です。

でも、そういった効果の無い取り組みだけを続けていても、何年かすると「やっても意味が無いね」感が漂ってしまい、住民運動も収束してしまいます。

そのため、プロジェクト遂行論ではなく、組織論で言うのなら、まずは早期に大きな成功体験をすることで「自分たちもやればできるんだ」という意識を芽生えさせることは重要です。

けど、それをやっているだけでは残れないんです。

 

■連続した手段の目的化現象

これも活性化で非常に各地で生じる問題です。

 「手段の目的化現象」

 何かイベントや取り組みを行うのは、活性化や乗客誘致の手段のはずです。

しかし、イベントや取り組みを行うことで満足してしまう・・・これが手段の目的化現象です。

 例えば三江線も萌えキャラクターを作りました。

どこかの製薬会社のCMではないですが、萌えキャラクターを作った事がゴールでしょうか、それとも新たなスタートでしょうか?

それは新たなスタートのはずです。

しかし、萌えキャラクターを作っただけで満足してしまって、何の展開も考えていないわけです。

さらに三江線はこのキャラクターの権利をある会社が持っていたため、誰かがグッズ作ろうとしても作れない状態となったわけです。

かといってその会社が何かするわけでもなく、例えば特設ホームページを作るとか、そういう動きも全くなかったのです。

でも、萌えキャラクター作っただけではお客は来ないんです。

そのキャラクターがどういうキャラクターでどんな設定でどんな娘なのかというストーリーがあって、そこに感情移入することによって「応援したい」という意識が芽生えるわけです。

 私はよく言うのは萌えをやるのなら「夏行きましたか?」「冬行きますか?」と言って、何の事か分からない人は萌えに手を出すなと。

オタクにとって「夏」「冬」と行ったらコミケしかありません。

それすら分からない状態で、「他がやっているからうちもやりましょうか」レベルでやってしまうと、オタクの心には響かず失敗してしまうわけです。

 

加えて、三江線はやっちゃいけないことをやっていました。

それは萌えキャラクターは決して万能ではないという事です。

 一般の女性からすると、萌えキャラクターってオタクの象徴で気持ち悪いという印象もあるわけです。

 私もコミケに行くような人なので萌え文化を否定する気は全くありませんが、現実は現実としてみないとならないですよね。

ところが、三江線は表紙を萌えキャラクターにして、中身は女子会と言うパンフレット作っちゃったんです。

そうすると、せっかく女子会と言うパンフレットを作っても、ターゲットの女性は表紙を見て手に取ろうとしない率が高いんです。

パンフレットは手に取ってもらわないとすべてが始まりません。

つまり、せっかくパンフレット作っても意味が無いんです。

 一方オタクの人たちが表紙を見て手に取っても、中身は女子会なので意味がありません。

さらに、配布場所も考えていませんでした。

これも各地で起きる現象ですが、沿線の観光案内を沿線で配っても意味が無いんです。

それは1時間に1本くらい電車があるところなら、ふらっと来る人もいるでしょうが、1日数往復、行ったら帰ってこれないこともあるような所を無計画で行く人ってまずいないのではないですか?

つまり、「来てください」というのなら、旅行の計画段階に入り込まないと、来てくれる余地はないんです。

ところが三江線も駅にパンフレットを置いているんです。

 他の路線でも車内に置いてあるとか結構ありますよね。

 「是非乗りに来てください」というポスターやパンフレットとは、乗車のきっかけを作るためにやっているわけです。

ところが駅に置くということは、まずは乗車して駅に来ないとポスターやパンフレットが目につかないですよね。

 乗車を促すポスターやパンフレットが、まずは乗車しないと見れない・・・

論理的におかしいですよね。

さらに、沿線の駅にもパンフレット置いていましたが、その駅の利用者数は0~数人で、その数人も地元の人ばかりです。

そこにパンフレット置いても意味が全くありません。

これが手段目的化現象です。

これはお客様を誘致する事業ではなく、パンフレットを作る事業なんです。

パンフレット作ったらあとは満足なんです。

それをいかにターゲットに伝達するのかとか、どうやったら手に取ってくるのかとか、そういうことは全く考えられていないんです。

パンフレットを作ると満足なんです。

つまりこれは乗客誘致事業ではなく、パンフレットを作る事業なんです。

これが「手段の目的化現象」です。
(ここで1ブログ記事の文字数がオーバーになりましたので、続きは次のブログへ掲載いたします。)