7年前のブログ

コロナの時代になって、何とか乗り切らなければならない。
会社を預かる身として、地域交通を預かる身として、列車の運行を絶やしてはいけないし、従業員の生活に支障をきたすことがあってもならない。

この春以降、頭の中はそんなことで一杯。
気分を紛らわすために線路の石を拾って缶詰にしたりしても、根本は何も解決しませんから、ただただ地道にコツコツ、そして悩み続けるしかないのであります。

そんな時に私の目の前に7年前に書いたブログが「ポン」とUPしてきました。

最近はAIなのでしょうか。
過去のブログがランダムに飛び出てくる仕組みが埋め込まれているようでして、何気なく読んでみたら、「へえ」と思いましたので、今夜はアーカイブスで行きましょう。

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2013年3月14日のブログ

「自分が死ぬということ」

ある人から言われました。
自分がいずれ死んで、この世からいなくなるということが考えられない、と。
その人が言うには、自分が死ぬということを考えただけで恐ろしいということで、考えると夜も眠れなくなるらしい。

私は答えました。
心配することないですよ。あなただけじゃないから。
みんな一緒だから。

皆さんの中で、いろいろ悩んでいる人もいると思います。
何だかわからないけど、悩んでいる、なんて人もいるかもしれないし、何も悩みがないことが悩みだという人もいるかもしれない。
でも、良いんだと思います。
悩むことが人間の仕事で、みんな悩みながら生きていくのが務めだからです。
で、結局、最後はみんないなくなるんですから。

だから、そんなに早く行こうとせずに、できるだけゆっくりと行けばよいんです。

私も、昔は文学青年だったぐらいですから、さんざん悩みました。
もっともそのころはやせていたんですが・・・というのは余談。

自分がやがて死ぬということが理解できなかったし、じゃあ、何が問題かと言うと、死ぬことが怖いのか、死ぬ時に痛いだろうなあと考えると不安なのか、死んだらどうなるのかが不安なのか、自分が死んだ後も世の中が動いていくのが怖いのか、何だかわからないけど不安で怖い時期がありました。

で、ある時期を境にそれが無くなりました。
それはいつだったかと言うと、自分に子供が生まれてから。
今まで存在しなかった子供が生まれてくると、その小さな赤ん坊を中心に家庭が回り始める。
自分がどういう仕事をしたいとか、本当はこんなはずじゃなかったとか考える以前の問題として、目の前の子どもはどんどん大きくなる。
つまり、それまでは自分が絶対だったのに、自分よりも子どもの方が絶対的な存在になるわけです。

今までいなかった人間が生まれてきて、そいつが絶対の存在になった時に、「ああ、俺もいつかは死ぬんだなあ。」ということが理屈じゃなくて感覚として理解できる。
ライフスタイルも多様化の時代ですから、一生独身の人もいるだろうし、男同士で好きになる人もいるだろうし、いろんな人がいても良いと思うけど、そういう人たちにはなかなか理解するチャンスがないだろうなあと思うのが、子どもを持った時に感じるそういう感覚。
だから、子どもが生まれて、苦労をして、その子供がだんだんと大きくなってくるのを見ていると、人間は不思議と天命というか宿命というか、そういうものを感じるチャンスに恵まれると思うのです。
で、私などはカミさんと二人でそんなことを5回も繰り返している。
そうすると、ある意味で悟りの境地ともいえる精神状態になることもあるわけです。

私が今考えていること。
それは、人間には持って生まれた使命というか役割があるということ。
この世に生まれてくる前は神様の下で修業をしていて、その神様から、「お前、あそこの家に生まれて修行をして来なさい。」と言われて、おぎゃーと生まれてくる。
その時に、神様から、「お前は人生でこういうことを学んで来い。」と使命を仰せつかって生まれてくるのです。

ところが、生まれた瞬間にその使命の記憶を消されてしまう。
だから、成長する中で、一生懸命に悩んで模索するわけです。

自分が「本当はこういう職業に就きたい。」と思って、どんなに努力してもなれないのに、大して努力もしないのに人がうらやましがるような別の職業に就いたりする。
そんな時は、きっとその職業に就いて努力していくのがその人が神様と約束した使命なのかもしれない。
そんな風に考えて見るのです。

私などはその良い例で、新幹線の運転士になりたかったけどなれなかったし、職業パイロットになりたかったけどなれなかった。
決して能力がなかったとは思えなかったけど、与えられた別の仕事を20年以上一生懸命こなしてきた。
でも、ふとしたきっかけで応募したいすみ鉄道の社長に選ばれて、今、また一生懸命働いている。
そして、今まで培ってきたことすべてが、いすみ鉄道の社長という仕事の役に立っている。
もしかしたら、これが神様から仰せつかった使命かもしれない、と思うわけです。

で、死ぬということはどういうことかと言うと、神様の下へ帰って行って、自分はこういう人生を歩んできました、と報告をすること。
そうすると、神様は「お前、何をやっていたんだ。そんなことをするために修行に出したんではないぞ。もう一度やり直してこい!」となるかもしれないし、「よしよし、頑張ったな。じゃあ、今度はもう少し難しい使命を与えるから、もう一度頑張って来い。」となるかもしれない。
いずれにしても、死んだらその使命を思い出して、自分がやってきたことの答えあわせを神様の下でやることになるのです。

だから、一生懸命に生きなければならない。
悩んでもいいから、一生懸命に生きなければならない。
私はこう考えることにしています。

人間には生まれながらにして力の違いがあります。
5の力しかない人もいれば、8の力の人もいるし、10の力を持っている人もいる。
大切なのは、どれだけの力を持っているかではなくて、持っている力を惜しみなく発揮することができるかどうか。
5の力しかない人が、5の力を出し切って頑張っている姿は美しいと思うし、せっかく10の力を授かっているのに、7や8の力しか出していない人は、それじゃあダメだよねとなる。
結果として8の力を出したとしても、精一杯頑張って5の力を出している人の方が、私は素晴らしいと思うわけです。

最後に、自分の使命と言うか、生まれてきた目的が見つからない皆様方へのアドバイスを一つ。
自分が何をやりたいとか、何ができるとかではなくて、あなたが何を求められているかを考えること。
それが第一歩なのではないでしょうか。

ということで私は今夜も酔っぱらっています。
でも良いんです。
私の想像する神様は、いつもお酒の瓶を持って、にこにこ酔っぱらっているのですからね。
若者よ、一生懸命に悩め!
そして自分が求められているものが何かを探すのだ!

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52歳の時ですね。
このブログを書いた日の私は酔っ払っていましたが、今は酔ってはおりません。
今日はお休みでお天気も良かったものですから、六角さんの呑み鉄本線のTVを見ながらちらりとランチビールをいただきましたが、緊急事態宣言以降晩酌はほとんどしなくなりました。

さて、今週はまた厳しい週が始まります。

気を引き締めて・・・
と自分に言い聞かせて進んでいきますよ。