昭和50年4月2日のつづき

羽田空港からの全日空51便は、午前8時40分に千歳空港に到着しました。

 

当時の千歳空港は鉄道との連絡が全く取られていませんでした。

後に、石勝線が開通する頃に千歳空港駅(今の南千歳駅)が誕生し、連絡橋で空港のターミナルビルへ行かれるようになり、その後、空港のターミナルが移転し、新しくオープンして新千歳空港になると、南千歳から分岐して地下区間を走って新千歳空港地下駅に到達する現在のルートになりましたが、昭和50年に私が初めて千歳空港に着いたとき、私はタクシー乗り場へ直行し、千歳駅までタクシーを飛ばしました。

というのも、飛行機が到着したのが8時40分で、私が追分に向かうためには千歳駅を9:16に出る急行「ちとせ2号」に乗らなければならなかったからで、事前に地図を見て調べたところ、だいたい10分もあれば到着するだろうと考えていたのです。

 

中学生が一人でタクシーに乗るなんてのはもちろん私にも初めての経験でしたが、タクシーは予定通り10分足らずで千歳駅に到着しました。

千歳の駅は今のように高架化される前で、小さな駅舎の壁に夕張鉄道が廃止になったというお知らせが貼ってありました。

 

 

この時、千歳駅で私が記念に購入した切符です。

いつもは入場券を買うのですが、美々という駅名が珍しくて、この時はこの切符を買いました。

 

 

そして千歳9:16発の急行「ちとせ2号」(気動車急行)に乗車して9:38に苫小牧に到着。

 

 

苫小牧から9:54発の室蘭本線の225列車に追分まで乗車しました。

この日の機関車はD511120。

雑誌で仕入れた情報によれば、この225列車はC57が引く列車のようですが、列車の先頭にD51が付いているのを見たときにはいささかがっかりしました。D51よりもC57の方がはるかに貴重で人気がありましたから。

でも、贅沢は言ってられませんね。

この室蘭本線の225列車が、私が最後に乗車した現役蒸気機関車が引く列車になりました。

 

ちなみにこの1120号機は低く唸るような汽笛に特徴があって、最近山口線で復活した200号機の汽笛の音色を聴くと、「似ているなあ。」と思います。

 

 

追分に到着した225列車の前で記念撮影の私。

私はここ追分で下車し、お目当ての機関区を訪ねます。

 

追分を発車して行く225列車。

 

 

構内の踏切を渡った先に機関区がありました。

 

 

当時の追分の駅構内はにぎやかで、こんな感じで煙が立ち込めていました。

私にとっては実によい雰囲気の駅に感じました。

 

当時の機関区は事務所へ挨拶して住所と名前を記入すると「気を付けて行動しなさい。」と言われて見学許可が出ました。

機関区によってはヘルメットを渡されるところもありましたが、追分でヘルメットをかぶったかどうか記憶にありません。

なぜなら、住所と名前を記入する建物の横の側線には、こんな感じで出区を待つ機関車が並んでいましたので、もう、気が気ではなかったのです。

 

入換用のキューロク

 

給炭台の脇に停車中のD51。

係の人に石炭が欲しいと申し出ると、「自分で乗って取ってきな。」と言われたので、運転席によじ登って石炭を5~6個記念にもらってきました。

今でも、家のどこかにこの時の石炭が残っているはずです。

 

追分を発車する室蘭本線の貨物列車。

 

こうして私は2時間ほど追分に滞在し、煙にまみれた時間を過ごすことができました。

 

 

せっかく追分に来たというのに、何しろ日帰りですから時間がありません。

室蘭本線の上りの時刻表を見ると列車本数が限られていることがわかります。

私は追分を12:56に出る226列車で戻ることにしました。

この列車は残念ながらDD51の牽引でしたが、早来と遠浅の間ですれ違った227列車はC5738の牽引でした。

 

帰りは226列車を沼ノ端で降りて千歳線の列車に乗り換えました。

 

 

 

乗り換えの時間待ちの間に沼ノ端を通過する貨物列車。

先頭の機関車はさっき追分で石炭をもらったD51465でした。

 

こうして、私が最後に蒸気機関車に接した1日は終了したのです。

 

私の北海道の鉄道の原点は、追分だということです。

 

わずか14歳の中学生でしたが、私は、この時、思いを遂げることの大切さを学びました。

あきらめてしまえばそれで終わりなのですが、あきらめずに努力して思いを遂げること。

それをやらないと、人生は道が開けないんですね。

 

だから、私は、やりたいことがあったら、本当にやりたいことなのかどうかをよく考えて、それが本当にやりたいことであれば、どうしたらできるか。その方法を探す人生を歩んできました。

飛行機の操縦をしたり、航空会社で働いたり、鉄道会社で働いたり。

人から見たらずいぶん活発に見えるかもしれませんが、その私の原点が、43年前のこの日だったのです。

 

私はそれほど恵まれた環境で育ったわけではありません。

どちらかというと貧乏な家で育ちました。

でも、自分で自分の道を切り開くという人生を歩んでこれたのは、この時、「どうしても行くんだ!」と考えて実行したことがスタートになっていることだけは確かだと思います。

 

ということは、私にとっての追分は、北海道の鉄道の原点であるばかりでなく、自分の人生の原点でもあるのです。

 

若い皆さんも、勇気をもって、ぜひチャレンジする人生を歩んでいただきたいと思いますが、そういう人生を歩めるかどうかのきっかけになるのは、意外にもこの程度の「小さなこと」なのかもしれません。

 

あれから43年も経過してしまいましたが、あっという間でしたね。

私もそろそろ人生のお仕舞が見えてきている年齢になってきましたので、もう一度原点に帰って、思う存分仕事をして日本の鉄道に恩返しをしたいなあと感じています。

そして、それをやるのは今なんです。

なぜならば、私に43年後はありませんからね。

 

(おわり)