山口線でSLが走っているわけ。

この間の台風のおかげで、せっかく予約した「やまぐち号」に乗れなかった話をしましたが、C57-1が山口線で走っていることは今では当たり前のように感じている人が多いと思いますが、当時の私にとってみれば奇跡に近いような出来事だったんです。

 

昭和50年に国鉄の営業線上から蒸気機関車が引退し、翌年の3月には構内入換などに残っていた機関車も消えてしまいました。

高校受験が終わって、やっと自由に旅行ができるようになったと思ったとたんに目の前から消えてしまったのですから、15歳の私にとってはとてもショッキングな出来事でした。

 

国鉄は赤字だというのに、どうしてこんなに人気があって、人々が集まってくる蒸気機関車というものを、ことごとく捨ててしまって、「近代化が完了しました。」などというのは、いったい何を基準としているのだろうか。もっとうまく蒸気機関車を使って収入を上げることができるはずなのにと、全くやっていることが信じられない思いでした。

その人々が集まるツールである蒸気機関車を忌み嫌うように捨ててしまった国鉄のローカル線には誰も訪れることがなくなって、その後、わずか10年程度で蒸気機関車が走っていた時には人気があった路線の多くが廃線になってしまいましたから、私は、今でも国鉄が蒸気機関車を廃止にしたことは間違っていたと考えておりますが、そんな当時、昭和54年に山口線でC57を復活運転するという話を聞いたときに、「国鉄もなかなかやるなあ。」と小躍りして喜びました。

 

当時の国鉄内部では、ある一部の人たちが蒸気機関車を全廃してしまったことは良くなかったのではないかと気づき始めていて、それは、人気や金もうけだけのためではなくて、産業遺産、文化遺産として、きちんと後世に伝えて行かなければならないという点でも重要だったわけで、だから、京都の梅小路に当時の全機種を集結させるようなことをやったわけですが、京都や大阪の大都市の近くでは本線運転がなかなか難しいことから、どこか動態保存した蒸気機関車を実際に走らせる場所を探したのです。

 

当時の議論は私も記憶していますが、なぜ山口線かと言うと、皆様ご存知のように蒸気機関車を運転するためにはそれなりの地上設備が必要で、機関車の車庫やターンテーブル、給水塔、給炭設備などが残っていることが前提でありますが、昭和53~4年の段階では、まだまだ全国のあちらこちらにそういう設備も残っていましたし、機関車を運転する人も、整備をする人も、現役でたくさんいらっしゃいました。だから、観光用として蒸気機関車を復活して走らせる路線は、室蘭本線でも、函館本線でも、石北本線でも、五能線でも、陸羽東線でも、磐越西線でも、会津線でも、只見線でも、山陰本線でも、筑豊本線でも、肥薩線でも良かったのです。

当時の国鉄は全国一社でしたから、選択肢はたくさん残っていました。

 

その中でなぜ山口線を選んだのかと言うと、もちろん地元の協力もあるのですが、最大の理由は山口線が小郡駅(現:新山口駅)で新幹線と接続しているということ。

東京や大阪から新幹線を利用してくれば、それだけで収入が増えるわけですから、ありがたいということです。

まして、当時は寝台特急などというのもありましたから、東京からの人は寝台特急で、大阪からの人は新幹線でやってきていただいて、ちょうど連絡する午前10時を出発時刻としたのです。

 

当時は上越新幹線も東北新幹線もありませんでしたから、新幹線といえば東海道山陽新幹線。その新幹線に接続する路線で蒸気機関車を走らせるにふさわしいところといえば、山口線以外にはなかったということです。

 

私はこの時、蒸気機関車を運転するだけでは儲からないけれど、お客様が新幹線やブルートレインに乗って来てくれれば、一人が払うトータル金額は数万円になりますから、収益性が上がると考えたことにとても感心したことを覚えています。

何しろ当時の国鉄という組織は、採算性を考えることが不得意の人たちの集団のようなところがあって、自分たちの都合を最前面に押し出して、お客のことなどどうでも良いという雰囲気が色濃かった時代ですから、そういう国鉄が、新幹線とセットで考えてくれれば蒸気機関車を走らせる価値があると考えたことは、それなりに評価できることだったんです。

 

そんなことは、民間企業じゃ当時から当たり前だったんですが、国鉄がやってくれたということで、私なりに評価が高かったということです。

 

昭和54年といえば1979年。それからすでに38年が経過して、今でも「やまぐち号」が走っているということは、決して「赤字」ではないはずで、なぜならJR西日本という会社は、赤字になるようであれば絶対にやらないと思いますから、赤字じゃないと思うのですが、その赤字か赤字じゃないかの判断というのは、昔のように乗車券と座席指定券で蒸気機関車の運行経費がペイできるかどうかというような短絡的なものではないはずで、当時の国鉄が「新幹線とセットで乗ってもらえれば黒字になる。」と考えたのと同じように、今の時代なりに、きっと、トータルで考えたら走らせる意味があるということなんだと思います。

 

そして、そのトータルで考えたらということは、どういうことかというと、これは私の想像ですが、蒸気機関車を走らせることによる地域への経済効果や、地域貢献ということも入っているでしょうし、小さな子供たちに将来も鉄道に乗ってもらうために、子供の時から蒸気機関車に乗ってもらって思い出を作ってもらおうというような啓蒙的な発想も大いにあるのではないかと思います。

 

昭和54年当時は新幹線やブルートレインで来てもらえれば、SL料金以外にもお金が入ると考えた国鉄ですが、当時は山口宇部空港に発着する飛行機は64人乗りの全日空のYS11が1日2~3本でした。でも今はジェット機が3社合計10本近く飛んでいる時代です。東京から新幹線に乗ってもらうと言っても、半分は他社の収入ですし、ブルートレインもすでにありません。だから、昭和54年当時の理屈は今では通用しませんし、民営化して30年経過した会社ですから、当時の国鉄とは基本的な考え方が異なるでしょう。考え方そのものが進化しているはずです。だから、たぶん、自分の会社が直接的に儲かるとか、そういう理由だけで「やまぐち号」を走らせているのではないと思うのです。

 

まして、今回、大きなお金をかけて後ろに引かせる客車を新造して、C57以外にD51も復活させているのですから、直接的利益だけではそういうことはできないはずだからです。

 

そう考えると、山の中を汽笛を響かせて煙を吐いて汽車が走る情景というのは、日本人として心に響く情景だというのは、蒸気機関車を知らない世代にも知ってもらいたいし、そうすることで、将来の鉄道利用者を育てて行こうというような、何かとても懐の大きなものを私は感じているのです。

 

何しろ、機関車の予備機を揃えて、客車を新造したということは、「まだまだこれから20年以上走らせるぞ。」ということだからです。

 

そういう会社に敬意を払って、今まで以上に「やまぐち号」に乗りに行くぞ! と考えたのが今回の旅行だったのですが、台風の季節が過ぎて落ち着いたら、とりあえず年内にもう一度計画してみようと思うのです。

 

この会社、鉄道の使命というものは輸送だけではないということを理解してくれているようですから、今後も注目できるのではないかと、私は秘かに期待しているのであります。