志免へ行ってきました。

志免へ行ってきました。

 

と言っても、皆さん、「志免」って読めますか?

志免がどこにあるかわかりますか?

 

私のブログを読んで下さる方々でしたら、例えば、直方、油須原、勾金、桂川、筑前山家、遠賀川は読めますよね。

 

直方は「のおがた」であって、「なおかた」という人はいないと思います。

油須原(ゆすばる)、勾金(まがりかね)は当然読めるし、どこにあるかもわかるでしょう。

九州の駅名の話をしているのはお分かりでしょうから、桂川は「けいせん」で、「かつらがわ」と読む人はいないと思います。

筑前山家(ちくぜんやまえ)は今ではひっそりとしていますが、SLファンでしたら当然知っている名前でしょう。

遠賀川(おんががわ)は鹿児島本線の駅ですから、読めますよね。

でも、遠賀川からかつて分岐していた支線をご存知の方は少数派になってしまったと思います。

 

では漆生は読めますか?

どこにあるかわかりますか?

 

志免も漆生も、廃止されたローカル線の駅ですから、やっぱり廃止されると、その後の人たちには読めませんし、どこにあるのかもわからなくなるんです。

 

志免は「しめ」と読みます。

漆生は「うるしお」です。

そりゃあ福岡県の人であればたいていの方は読めると思いますが、鉄道が走っていた時代ならば全国区だったわけで、どうやって行くかということも、鉄道が走っていれば、今の時代は時刻表検索でパッと表示されるわけです。でも、廃止されてしまうと、町がどこにあるかも、どうやって行くかも、そこへ行こうと思って自分で調べない限りはわからないのです。

 

でもって、国鉄からJRになる時に全国で80以上もの路線が「いらない。」「バスで十分だ」と言われたわけですが、廃止されてみるとどこにあるのかも、なんて読むのかも、どうやって行ったらたどり着けるのかもわからなくなってしまったのです。

 

そういう廃止されたローカル線の中で、私が以前から「???」と思っていたのが九州の勝田線で、志免はその勝田線の駅があったところなんです。

なぜ「???」と思っていたかというと、この勝田線だけは、他の80いくつあった地方交通線の中で、「どうして廃止する必要があったのか?」ということがわからないからで、その理由は、志免町があるのは福岡空港から車で10分程度のところだからで、今では福岡市のベッドタウンとしてとても賑わっているからです。

この勝田線は他の筑豊地区の路線と同じで、炭鉱で産出された石炭を運び出すために建設された路線で、炭鉱が閉山になった後は、ご多分に漏れず赤字ローカル線として、「要らない存在」になって行ったわけです。そして1980年に廃止されました。

でも、当時、すでに福岡のベッドタウンとして宅地造成が開始されていましたから、人口は伸び始めていて、そういう点を考えると、例えば同じような経緯の宮田線、香月(かつき)線、室木線といった路線とは置かれた環境が違っていたわけです。

 

博多駅の隣、吉塚から分岐していたのが勝田線です。

今は香椎線が宇美まで走っています。

昭和50年当時の時刻表です。

見えますでしょうか?

毎日走る列車としては1日6往復だけです。

遠賀川から出ていた室木線も6往復。

甘木鉄道として残っている甘木線は7往復です。

 

これを見る限り、室木線はともかくとして、博多のすぐ近くにある勝田線が1日6往復って、いったいどういうことなのか。実に不思議です。炭鉱が閉山されたのが1964年(昭和39年)で、その時には一時経済が落ち込んだと思いますが、昭和50年ではすでにベッドタウン化が始まっていて、今日に至るまで志免町は人口が増え続けているんです。

つまり、ローカル線が廃止された後でも人口が増えて町が発展しているのは、全国でも大変珍しい。

逆に言えば、鉄道を廃止する必要がなかったところなんです。

 

だとすると、考えられるのは当時の国鉄のやる気のなさ。

時刻表を見ればわかると思いますが、福岡近郊でありながら、なぜか機関車牽引の客車列車で、運転は博多の手前の吉塚で打ち切り。1日7往復の甘木線は、それでも朝の通期の列車を1本博多まで直通運転していますが、勝田線はそれもなし。

当時の香椎線は今の長者原駅はありませんでしたから、香椎まで出なければならないわけで、だとしたら勝田線の利便性が良ければ、もう少し利用者があったはずですが、全く手付けずで放置した感が強いですね。

当然、路線バスにお客は流れるでしょう。でもって、乗らないから廃止。というパターン。

当時を知る地元の方にお話をお伺いしましたが、「あのころは、100円の運賃を稼ぐのにいくらかかるか、という話ばかりでしたよ。」とおっしゃられていました。つまり営業係数ですね。

でも、吉塚駅で鹿児島本線から分岐する勝田線の場合、吉塚駅の切符の売り上げは当時のルールでは鹿児島本線の売り上げとしてカウントされていましたから、いくら勝田線にお客さんが乗ったって勝田線の売り上げにならないわけで、今の時代で言えば、青春18きっぷでローカル支線に乗ったとしても、その路線の売り上げには貢献しないのと同じ。つまりもっと広い範囲で物事をトータルに考えなければならないのに、路線別係数なんか出したりしたわけで、つまり、廃止するための理論がまかり通っていたのです。

そういうやる気のない営業戦略の結果として鉄道が廃止になり、その後30年以上も人口は伸び続けていて、主要な足となっているバスが、渋滞で時間が読めない、というのが志免町の悩みのようなんです。

JR九州だったら絶対にドル箱になっていただろうなあ、と思うのであります。

 

 

 

 

志免駅があった場所は、今、鉄道公園として駅の一部が保存されています。

付近の道路は大渋滞で、空いていれば10分で行く福岡空港が、20分、30分かかることもしばしばだそうで、バスで博多へ出る場合は40分以上かかることもあるそうです。

 

 

当時の駅の写真が貼られていました。

 

 

鉄道公園の向こうに見えるのは志免町のシンボル、炭鉱の竪坑跡。

 

国から近代化産業遺産に指定されているそうです。

 

 

志免町は人口45000人。町というよりも市という感じがしますが、それもそのはず、人口密度で言えば全国の町村のなかで一番だそうです。

お話をお伺いしました志免町の世利町長さん(中央)、伴商工会長さんです。

 

お時間をいただきましてありがとうございました。

 

国鉄の赤字ローカル線の中で、廃止にしなければならなかった理由がどうしても理解できない勝田線ですが、40年以上人口が増え続けている「取っておけばよかったのに」という路線が勝田線だと思います。

もちろん、本来の意味の「地域の足」として十分の活用できたという点で、でございます。

 

 

帰りの飛行機が福岡空港を南に向かって離陸しました。

山の向こうに見える住宅密集地帯が志免町です。

こんなに近いんです。

 

 

望遠レンズにしてみたら、シンボルの炭鉱竪坑が良く見えました。

後ろの山はボタ山です。

 

つまり、需要がそこにあったのに、鉄道屋さんにはそれがわからなかった。いや、わかってたかもしれないけれどやらなかった。

そういうことなのです。

 

ただし、志免町はちゃんと発展しておりますのでご安心ください。

 

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