国鉄木原線の写真 その4

本日は久しぶりのお休み。
佐倉の自宅で朝からFACEBOOKをやって、ブログを書いておりますが、おっと、これから大多喜へ行かなければなりません。そしてその後は錦糸町のイベント会場へ。せっかく錦糸町まで行くのですから、夜は東京の取引先の方と打ち合わせをします。
なかなか忙しい1日なのであります。
忙しいと言えば、8月中旬はいろいろあった関係で、「次は上総中野です。」と8月4日にご案内いたしました「国鉄木原線の写真」がパート3で止まったままでしたので、本日はその続き、パート4でございます。
ということで、前回ご紹介いたしました、葛飾区の石田さんが送っていただきました昭和44年の木原線の写真。上総中野駅です。




渡辺新悟さんが撮影した今のいすみ鉄道と比べてみました。
(クリックすると大きくなります。)

▲昭和44年当時の上総中野駅の駅舎。
この駅は小湊鉄道の駅として開業した関係で、駅員は小湊鉄道の職員。国鉄が間借りしている形でした。
昭和5年に大原-大多喜間が開業し、人車軌道から国鉄木原線になったいすみ鉄道ですが、その後、木更津を目指して延伸工事が進み、総元から上総中野まで開業したのが昭和9年8月23日。
先日、インターネットのニュースで、木原線(大原-上総中野)開業から81年と伝えていましたが、昭和5年の大多喜開業から数えると、今年は85年です。
国鉄木原線の廃止が取りざたされたのは昭和43年。そのニュースを聞いた石田少年が、ローカル線に乗ってみようとカメラを持って初めて木原線に乗車した翌昭和44年の写真ですが、今とほとんど変わっていないのがお分かりいただけると思います。
昭和5年に開業した木原線が、昭和43年に国会で「役割を終えた」とされるまでの期間は38年間。
そして昭和43年に役割を終えたとされてから、現在までが47年ですから、要らないと言われてからの歴史の方がはるかに長いのです。
でもまた走っている。
国の偉い人たちが雁首揃えて会議をやって、「役割が終わった」と宣言してから50年近くたった今でも旧国鉄木原線は立派に走っているのですから、もうそろそろ自分たちがやってきたことの間違いを認めて、「今までよく元気で頑張ってきてくれました。」と温かい手を差し伸べてくれても良いと思います。
それじゃないと、役割を終わったのは鉄道だけじゃなくて、ローカル線を抱える全国の沿線市町村だって、役割を終えているところがほとんどなわけですから、地方不要論になってしまうのです。
地方創生って、地方から見ていると、どうも中央の上から目線的なところ感じます。
予算を特別に確保して施してやってるんだ的な感じがします。
そうじゃなくて、かつて中央の人たちが考えてやってきたことがうまく行っていないということは、間違っていたということなのですから、上から目線じゃなくて、中央が地方から何を学ぶか、ということが問われているわけで、そういう地方でやっていることを中央が一生懸命勉強することが真の意味での地方再生であり、国家の存亡の危機を乗り越えるために必要なことなのだと、国鉄諮問委員会の答申から47年経ってもまだこれだけいすみ鉄道が元気で走っているのを、旧国鉄木原線の写真を見ていて、私は思うのであります。
何しろ、この写真を撮られた時に中学生だった石田少年が、すでに還暦を迎えても、木原線は形を変えて走っているのですから。
葛飾区の石田俊幸さん、貴重なお写真を本当にありがとうございました。
(おわり)
【追伸】

昨日、千葉県立館山総合高校の生徒さんたちが取材に来てくれました。
文化祭でいすみ鉄道を舞台にした映画を作っていただけるそうです。
今から40年経って、彼らが還暦に手が届くなるころには、いすみ鉄道どころか、日本がどうなっているかもわかりませんが、これから40年後って気が遠くなるほど遠く感じるけれど、実際はそれほど遠い未来でもないような気がします。

45年前の大多喜駅。
昔の高校生と今の高校生の違いはありますが、こういう写真を見ると、時間の経過があっという間であることがわかりますね。
高校生の皆さんから教えてもらうこともたくさんあるんですね。
次の時代を作っていく彼らには最大限の協力をしたいと思います。
館山総合高校の皆さん、ありがとうございました。
良い作品を作って後世に残してください。