国鉄時代の客車列車の運用についての考察

昨日までずっと連続仕事だったので、今日は久々の休み。
でも、外は秋の雨。
太田裕美の「September Rain」でも聞こうかと思ったけれど、だとするとやはり必要なのは昭和の時刻表ですね。
ということで、昭和の時刻表の旅にお付き合いのほどを・・・
先日山陰本線の824列車の記事で少し触れましたが、客車列車の運用というのが国鉄時代のローカル線(地方路線)ではパターン化されていました。
客車という定義は「人間が乗る車両」で、これに対して貨物を積む車両を貨車と言いますが、一般的に鉄道業界で客車列車という場合は、電車やディーゼルカーではなくて、動力を持たない客車を先頭の機関車がけん引する形で運用される列車で、動力集中型と呼ばれています。これに対して、電車やディーゼルカーは基本的には、編成中のそれぞれの車両に動力が付いていて、先頭に機関車を連結しなくても走ることができますから、こういう形で運転される列車を動力分散型と呼んでいます。
最近話題のブルートレインは、寝台編成の客車自体は動力を持っていませんので、先頭に機関車を付けて走る必要がありますから客車列車です。でも、先頭に機関車が付いている列車は、終点に到着すると列車の反対側に機関車を付け替えなければなりませんし、動力が先頭にしかありませんから、加速減速の性能が電車やディーゼルカーに劣るなどの欠点があるため、最近ではどんどん消えていく傾向にありまして、来春に「はまなす」と「カシオペア」が引退すると、時刻表に乗っている定期列車では、貨物列車以外には機関車が引く列車は日本のJR線上からは消えることになりそうです。
明治5年に新橋―横浜間に鉄道が開業した時から続いてきた機関車がけん引する客車列車がついに消えるわけですから、時代の波とは言え、さみしい気持ちです。
でも、機関車がけん引する客車列車にはそれなりの利点というものもあって、かつて、昭和時代にはその利点を生かして活躍する姿が全国各地で見ることができました。
機関車大好き人間で、時刻表少年の成れの果ての55歳オヤジの私としては、どうしても昨今の業界の「機関車嫌い」の風潮が納得できないので、今日は古い時刻表をひも解いてみようと思います。

1984年(昭和59年)の津軽線です。
列車番号を見ればわかるように早朝の921列車(青森→蟹田)と蟹田で折り返す青森行924列車が1日1往復だけ客車列車で設定されています。
この列車は「休日運休」という表示の通り、通勤通学輸送用の列車で、蟹田方面から青森市内への輸送用として運転されていました。早朝の921列車は快速扱いになっているのを見てもわかるように、蟹田までの送り込み列車であることがわかります。
ではなぜ朝の通勤通学時間帯に機関車が引く客車列車が残されていたのかというと、乗客が集中する通勤通学時間帯は、その線区に配属されているディーゼルカーでは車両が足りないために、客車を増結して走らせていたのです。各車両に動力を搭載したディーゼルカーや電車は価格が高い車両です。これに対し動力を持たない客車は安価ですから数多くそろえることができます。そして、閑散時間帯には車庫で眠っていて、忙しくなるとまた駆り出される。これが客車の良いところで、高価なディーゼルカーや電車は必要最低限の数だけ揃えていて、あとは客車で補うというスタイルが昭和の国鉄の車両運用でした。先頭に付く機関車は、閑散時間帯は貨物列車の運用に当たれば無駄がありません。この津軽線の時刻を見ればわかりますが、夕方青森を出る列車が3本設定されていますが、輸送が集中する朝の上りには客車を入れ、夕方はディーゼルカーで分散させて運んでいたということですね。
客車5~6両で朝の輸送を行い、2~3両のディーゼルカーで、15時、16時、17時と帰宅列車とすれば効率的ということです。

こちらは同じ昭和59年の八戸線です。
八戸―鮫間に、朝1本、夕方1本の客車列車が設定されています。
これも同じような運用ですが、津軽線が朝1往復だけなのに対して、八戸線は朝夕それぞれ1往復の客車列車が設定されているのを見ると、津軽線よりは輸送力が求められていたのかもしれません。
朝の1627列車というのが、一戸と野辺地からそれぞれやってきた列車を八戸で併結させていたようで、夕方の641列車の鮫からの折り返し列車がやはり東北本線へ入っていくのが別ページでわかります。八戸市内の市街地の成り立ちを考えると、本八戸での乗降が多かったことがわかりますから、東北本線内から本八戸までの輸送が主だったと思います。

こちらは津軽海峡を渡った江差線の時刻です。青函トンネル開通前ですが、当時はまだ松前線も残っていました。
これを見ると、朝5:49に函館から出る上磯行1721列車と、夕方17:45に函館を出る1723列車が客車列車です。
朝の1721列車は、私も実際に乗車したことがありますが、上磯駅の海側にある折り返しホームに入線し、折り返し函館行となります。函館―上磯間は送り込み回送のような列車で、上磯からの折り返しが高校生でいっぱいになっていました。
では、この江差線の上り列車を見てみましょう。

木古内発の1722列車と、上磯折り返しの1724列車の2本が函館へ向かう通勤通学輸送用です。
上段の下り列車で夕方の輸送用として木古内に18:56に到着した客車列車は、そのまま木古内で停泊し、翌朝6:17の上り列車になることがわかります。(そのほかの列車は皆ディーゼルカーですから。)
こうやって、客車列車は忙しい時間帯が終わると、まだ早い時間から運用を退いて、構内の片隅でのんびりを夜を明かしていたということがわかります。

こちらは少し時が遡りますが、1973年(昭和48年)の阿仁合線。今の秋田内陸縦貫鉄道です。
阿仁合を5:16に出る222列車というのが客車列車で、あとはディーゼルですね。
この列車で会社や学校へ行く人たちを鷹巣方面へ運んで、帰宅列車は鷹巣を20:40に出る最終の237列車。学生さんたちはおそらくその前の235Dあたりで帰宅したのでしょう。
237列車は22:12に阿仁合に到着すると翌朝まで停泊したことがわかります。客車列車が停泊するということは、機関車も停泊するわけで、当時は蒸気機関車でしたから、それなりの設備が必要になります。いまの秋田内陸縦貫鉄道の車両基地と本社が阿仁合にあるのは、この辺りが理由だと思います。昭和48年当時の阿仁合線はもしかしたらまだC11が残っていたかもしれませんが、客車列車がこの時間帯であるということは、ほとんど撮影不可能な時間帯ですから、あまり記録が残っていないというのも理解できますね。

こちらは先日SLが走った山形県の左沢(あてらざわ)線。
夕方山形を17:35に出る1339列車が客車列車で、18:33に左沢に到着すると、そのまま翌朝までおねんねです。昭和48年当時はまだC11だったと思いますが、機関車牽引の列車はところどころ通過しています。なぜか不思議な光景だと思いますが、機関車が引く客車列車は編成が長く、停留所のような駅には停車することができないため、主な駅だけの停車となっていたようです。ディーゼルカーが2両だとすれば客車は5~6両だったはずで、前後に設定されているディーゼルカーの列車が小さな駅を担当したのでしょう。ローカル線とは言え、朝夕はとても忙しいダイヤであることがわかります。

さて、東北地方の客車路線で忘れてはいけないのがこの日中線です。
すでに廃止されてから30年以上が経過していますので、忘れられても仕方ないとは思いますが、この日中線は1日3本しか列車が無くて、全列車が機関車が引く客車列車でした。
この理由は気動車が不足していたことではなくて、実は日中線では貨物の取り扱いがあって、旅客列車と貨物列車を一緒にした混合列車として運転されていたからで、輸送力が少ない閑散線区ではそういうシーンをよく見ることができました。貨物の取り扱いがある以上は基本的には機関車が引く列車ということになりますね。
昨年の7月31日の私のブログにこの辺りのことが詳しく記載されていますので、興味がある方はご一読ください。
機関車というのは動力を1両用意すれば、短編成から長編成までの列車に対応できるし、旅客列車にも貨物列車にも対応できる優れものなのですが、地方路線から貨物列車が消え、JRになって旅客と貨物が分離するようになると、効率が悪いと言われるようになり、どんどんと虐げられていった存在なのです。
皆様もどうぞ客車列車に愛情を持って接してくださいね。
いえ、客車列車だけでなく、鉄道そのものにもっと愛情を持っていただけないでしょうか。
特に、関係者の皆様方に、切にお願いしたい今日この頃でございます。
本日は昭和の機関車が引く客車列車の運用のお話でした。