さようならトワイライト

トワイライトというのは人生でいうと「そろそろおしまい」という意味ですから、さようならトワイライトという本日のタイトルは少々おかしいかもしれませんが、ご勘弁を。
昭和35年生まれの私は、中学3年生の時、昭和50年に室蘭本線を最後に日本から蒸気機関車が消えました。
だから、かろうじて、現役蒸気機関車を知っている世代です。
15歳で「かろうじて」とは、と思われるかもしれませんが、田舎育ちであれば中学3年まで日常的に蒸気機関車に接することができたのでしょうが、私は東京の板橋に住んでいましたから、私が9歳の時、昭和44年に両国から出発するC57が「さよなら」で、その翌年の昭和45年には八高線からも消えましたから、身近で蒸気機関車を見たのはその頃までで、だから「かろうじて」ということなんです。
あとは、鉄道百年の復活蒸機が新橋(汐留)から走ったり、小海線のポニーだったり、会津、只見だったり、それも中学2年にはなくなって、新幹線と寝台列車を乗り継いで山陰へ出かけたり九州へ行かなければ蒸気機関車には接することができず、最後の最後に室蘭本線と夕張線に出かけることができたのも、「かろうじて」なんですね。
このあいだ、加山雄三さんがいすみ鉄道にいらして対談をさせていただきましたが、彼は開口一番、
「僕の学校は東海道線の線路の脇だったから、特急列車が走るのをいつも見ていて、車輪の音だけで機関車がC62だってこともわかったよ。」
と、こうおっしゃいました。
もちろん新幹線開業前の話ですが、151系特急「こだま」が登場するよりも前の、SL時代の東海道本線ですから、私は、「大変うらやましい時代を過ごされましたね。」と申し上げました。
加山さんも、「そうそう、そうなんだよね。何しろC62が『つばめ』を引いていたんだから。」と鉄道談議に花が咲きました。
加山さんは昭和12年生まれですから、彼が小学生高学年のころというのは昭和23~24年。C62が特急機関車として登場して、東海道本線に投入されたのと同じ時なんですね。だから、戦後の東海道本線の歴史を目の当たりにしてこられた、とてもうらやましい環境にいらしたわけです。
私のように「かろうじて」蒸気機関車を見ることができた世代の先輩にあたるのは団塊の世代の方々で、加山さんはそのさらに上の世代ということになるのでしょうが、当時20代だった団塊の世代の皆様方が、SLブームというのを巻き起こし、日本全国津々浦々の美しい景色の中を走る蒸気機関車を撮影して、テレビや雑誌で紹介してくれたおかげで、私の世代は、東京生まれの東京育ちにもかかわらず、少しませた小中学生などは、「SLには郷愁がある。」とか、「やっぱり日本の風景はローカル線あってこそだ。」などと生意気なことを言っていましたし、そういう人間が50を過ぎて、今、ローカル線で昭和のディーゼルカーなどを走らせているわけですから、なんだかすべて繋がっているようにも思います。
そう考えると、蒸気機関車どころか、キハ20系やキハ58系を知らない世代や、かろうじて知っている世代の人たちが、いすみ鉄道にやってきて、「やっぱりキハは良いよな。」と言ってくれるのを見ると、日本の鉄道趣味はこうやって続いていくんだと確信が持てるというもので、SLブームを作ってくれた団塊の世代のお兄様方に、私はとても感謝するのです。

[:up:] 加山雄三さんとのツーショット記念写真です。
さて、「かろうじて」SL世代である私は、ある時、この「かろうじて」というのがとても嫌になりました。
どういうことかというと、この「かろうじて」世代は、いつの時代も常に消えゆくもの、去りゆくものを追っかける世代であって、そんなことをしていたら、いつまでたっても成仏できないと言いますか、終わりがないし、満足できないからです。
私の親の世代は、世の中が蒸気機関車に沸いているときに、「あんなもんどこが良いんだ。さんざん乗ったよ。」と言っていましたので、私はその「さんざん乗ったよ。」ということがうらやましく思ったのですが、どうしたらそういう心境になれるかということを考え始めました。
そこで、私は、次に何がなくなるかを常にチェックして、先手を打って、まだ誰も振り向かないうちから、思う存分体験してやろうという考えに変わったのです。
つまり、今なくなりそうな、例えば115系電車を追いかけるのではなくて、今なら211系や武蔵野線の205系などをたっぷり味わっておくような、そんな考えに変わったのです。自分が好きなジャンルのことでしたら、だいたいわかりますからね。
中学3年生の時にSLブームが終わって、鉄道趣味というものが一時廃れたようになりましたが、高校に入った私は、「食堂車はいずれなくなるだろう。」と思って、ひと夏、アルバイトとして思う存分食堂車に乗りましたし、次は旧型客車だと思って、上野から青森まで各駅停車の客車を乗り継いで、青函連絡船で函館に渡ると、そのまま客車を乗り継いで根室まで行くようなことをしました。
上野から根室まで60時間以上かけて、茶色い旧型客車の各駅停車だけを乗り継いで旅をしたのですが、その後、10系寝台車や急行に格下げになった20系ブルートレインなど、とにかく「かろうじて」ではなくて、普通に乗ってたくさんの思い出を作りました。
今年で全廃になるブルートレインも、九州特急と呼ばれていた「あさかぜ」「さくら」「富士」「はやぶさ」をはじめ、「瀬戸」「出雲」「紀伊」「彗星」「あかつき」「銀河」に至るまで乗りつくしましたし、乗るだけじゃなくて、ビデオカメラを持って先頭の機関車に乗り込んで、夕暮れや明け方の走行を記録するなんてことも、廃止が決まるずっと以前から撮り続けてきたのです。
だから、今回、北斗星やトワイライトがいよいよだなんて話を聞いても、今になってソワソワすることもなければ、お金の力に任せて寝台券を入手しようなどという発想にもなりませんでした。
「俺はもう十分体験したし、やるだけのことはやったんだ。」
そういう気持ちなんですね。
だから、上野駅にも大阪駅にも札幌駅にも行かないし、そういうことはかつての自分が夢中になって蒸気機関車を追いかけたように、「かろうじて」の人たちに体験させてあげればよいと思うのです。
だから、30過ぎたおじさんたちは、最後のお見送りになんか行かないで、トワイライトや北斗星など、乗ろうと思ったって乗ることができないまま「さよなら」をしなければならない20代以下の若い人たちを優先させてあげてほしいと思います。
今までさんざん乗ることも見ることもできた世代の人たちが、前に出て「お前ら邪魔だ。」などとわめき散らすとしたら、「私は時代の先が見えない馬鹿者です。今まで時間の無駄遣いをしてしまったので、今になって焦っているのです。」と自ら宣言していることになるわけで、いい大人が、自分が夢中になるだけで、小さい子供や若い人たちを顧みない姿は、みっともないだけでなく、見苦しいのです。
トワイライトも北斗星も1980年代から走っていたのですから、いくらでも乗ったり撮ったりするチャンスがあったおじさんたちが今更大騒ぎするべきではないし、遠くからそっと見送ってあげるだけで良いのではないでしょうか。
あとは、いすみ鉄道の夜行列車にでも乗りにいらっしゃい。
そうすれば、また思い出が一つできますからね。
本日限りで役割を終える列車たちへ、「ごくろうさま」と心の中でエールを送りましょう。
そして、その列車たちを長年にわたって安全に走らせてきた鉄道マンの皆様方に「ありがとう。」の気持ちを忘れないでくださいね。
さあ、明日からは、また鉄道の新しい時代が始まります。

[:up:] 2006年8月30日 岸辺駅 このころは誰もカメラを向けていませんでしたね。一番良い部屋は取れませんでしたが、その他の部屋ならたいてい取れた時代でした。