夏が来れば思い出す・・・

毎年この季節になると思い出すのが食堂車に乗務したことです。
昭和51年、1976年8月に私は当時上野にあった日本食堂という会社の門をたたいて「アルバイトしたいんですけど」と尋ねてみました。
正式にはアルバイトの募集は出てなかったんですが、まず電話をして、「アルバイトしたいんですけど。」と聞いてみると、「とりあえず一度いらっしゃい。」という話になったんです。
当時は今のようにコンビニもなければマクドナルドなどのファストフードも数えるほどしかありませんでしたから、高校生のアルバイトはなかなかなかったんですが、私は運よく日本食堂に潜り込むことができたんです。
そして、スケジュール表を渡されて、「本職の人たちについて補助的な仕事をやりなさい。」と言われ、上野発の特急列車への乗務が始まりました。
その時のスケジュール表や乗務した列車の車両番号などはすでに手元にありませんが、当時の時刻表(1976年8月号)が手元にありますので、ご紹介いたします。
国鉄時代を知らない若い人たちから見たら信じられないようなダイヤだと思います。

一番最初に乗った列車は「ひたち」でした。
上野を10時に出る「ひたち2号」の原ノ町行です。
この時刻表は巻頭部分の緑のページの「L特急のご案内」という抜粋版ですが、当時は今のように上り下りで偶数奇数になっていませんでしたので、「ひたち1号」が上り下りそれぞれに存在するのがお分かりいただけると思います。
私が乗った列車は13:38に原ノ町に到着すると海側にある電留線に入換をして1時間半ぐらい停車してから、15:40発の「ひたち7号」となって上野に19:20に戻る行路でした。
原ノ町で1時間半何をしていたかというと、記憶に残っているのは駅の構内にC50という蒸気機関車が保存してあったのと、高い煙突が見えたことぐらいでしょうか。
残念ながらカメラを持っていませんでしたので、写真はありません。
「ひたち」は485系ボンネットのフル編成で、何をもってフル編成というかといえば、きちんと食堂車が連結されていたんです。
常磐線の列車に食堂車が連結されていたというのも、今思えば信じられませんが、下の時刻表を見ればそれがご理解いただけると思います。

クリックすると拡大します。
急行「ときわ」が数多く出ていたりするのを見ると、特急としての「ひたち」は別格だったことがわかりますね。とくに食堂車を連結した「ひたち2号」は風格がある列車だったのです。
この時刻表で面白いのは7:27に上野を出る急行「あじがうら」。
海水浴臨時列車で、勝田から茨城交通に乗り入れて阿字ヶ浦まで直通していた列車です。
いまのひたちなか海浜鉄道の湊線ですが、国鉄からの直通列車があったということがわかります。
茨城交通に入る列車ですからもちろん気動車で、この他にも「奥久慈」やそれに連結される「ときわ」も気動車でしたし、臨時急行「もりおか51号」などは機関車がけん引する客車の急行列車でした。
グリーマックスの編成キットで「帰省急行」なんていうのが出たのもこのころですが、お盆や年末年始の時期には、寄せ集めの旧型客車で編成されたこういう帰省列車がたくさん走っていたんです。
次に乗ったのが上越線経由の新潟行特急「とき」。
「こだま形」と呼ばれたボンネットの181系電車です。

「とき」も日帰りの行路で、「とき3号」で上野を8:38に出て、新潟に12:30に到着。そのまま新潟駅近くの電留線に引き上げて、折り返しは13:50発の「とき8号」で上野到着は17:49というものです。
「ひたち」もそうですが、この「とき」も、日帰りで朝から夜まで乗務する行路は結構しんどかったことを思い出しますが、食堂車に勤務している皆様方は、折り返しの1時間ほどの間は、ブラインドを閉めた車内で爆睡していました。
私はその間駅の周りをプラプラしたり、列車の中を探検したりしていましたが、それが疲れた原因だったかもしれません。

当時の高崎線の時刻表を見ると、同じ「とき」にも食堂車のある列車とない列車が存在しています。
記憶を頼る限りですが、食堂車のある列車は181系で、食堂車のない列車は183系だったと思います。
日本食堂の上野営業所が受け持っていた列車は食堂車のある列車で、その食堂車をベースに前に後ろに車内販売のワゴンを押して歩くのが私の仕事でしたから、「とき」も181系に乗れたんだと思います。
今考えるとラッキーな体験でしたね。
もっとも、181系は他の車両に比べると少し車高が低く、その分連結面に段差ができていて、車内販売のワゴンがそこでつっかえて、「この車両はいやだなあ」と思っていたのも事実で、私にとっての181系の印象は、この連結面の段差なんです。
同じ高崎線の特急でも金沢行の「白山」は、これまた風格を感じる列車でした。
私が乗務したのは9:34に上野を出る「白山1号」で、車両はボンネットの489系。横軽を経由する列車で、直江津でスイッチバックして終着金沢には16:15に到着する列車です。
このぐらいの乗務になると日帰りではなくて「泊まり」の行路となって、金沢到着後は日本食堂の寮のようなところに連れて行かれて、2段ベッドの部屋に泊まりました。
金沢ではまだ地上駅だった北陸鉄道の電車に乗ったのを覚えていますが、白熱灯の木造電車のような小さな電車でした。
このような泊りは「はつかり」(青森)、「やまばと」(山形)でもありましたが、楽しかったですね。
この高崎線の時刻表で気が付くのは急行列車がたくさん設定されていたことで、その中でも上野を6:16に出る急行「妙高1号」にはコーヒーカップのマークがついているのがわかります。
これはビュッフェのマークで、この急行「妙高」にはサハシが付いていたことがわかります。
他の「信州」や「よねやま」には付いていませんからサハシが付いていた列車は当時でも珍しかったんですね。
特筆すべきはこれら急行列車は8月12日~14日は指定席が連結されていないという注記で、どういうことかと言えば、グリーン車以外は全車自由席としての取り扱いをすることで、ギューギューに詰め込んだことがわかります。
つまり、お盆の輸送時にはそれだけ需要が多く、特に庶民派の急行列車が、特急列車に乗ることができないお客様の輸送を一手に引き受けていたということなのです。
指定券を売らない代わりに始発駅では着席券という乗車整理券を販売して座席を確保したり、少し前まではワッペン列車などという制度もありました。
上野駅の外にテント村ができて、夜行のお客さんは昼過ぎからそこに並んで列車に乗っていた時代で、今そんなことをやったら皆さん熱中症で倒れてしまいそうですが、列車に乗るためにはそこまでしなければならないという、今思うと、飛行機が台頭する前の最後の隆盛期でしたね。
今から38年前の夏季輸送は、それだけ需要があったということがよくわかります。
私たちの世代にとっては懐かしい列車たちですが、若い皆様から見ると、新鮮な発見があるのではないでしょうか。
毎年、この時期になると、40年近く前に食堂車のついている列車でアルバイトしたことを思い出します。
人生のスタートラインから好き勝手やってきたんだなあと思いますね。
今の自分の中で、立派な肥やしになっているということだけは確実のようです。
私が、書入れ時の夏休みにわざわざ客単価の安い「カレー列車」や「親子でイタリアン」などの列車を走らせる意味がご理解いただけますか。
若い人や親子連れなどの子供たちに、楽しい食堂車の思い出を持ってもらいたいからなんです。
そういう人たちが30年40年経ったときに、いすみ鉄道が、皆さんの人生の立派な肥やしになるようにね。
その時は私はいないけど、それが後世につなぐということだと思います。
だから、皆さんも、若い時期は思いっきり好きなことに打ち込むことをお勧めします。