東京少年 5

1972年、昭和47年10月の鉄道記念日に、新橋(汐留)―横浜(高島)間でC57-7の引く記念特別列車が走りました。
私は小学校6年生でしたが、その列車の写真を撮りに出かけたというお話ですが、当時の私は高島貨物駅がどこにあるかも知らず、東海道線で追いかけて横浜へ行ったものの、横浜で降りても行くところがないので、あいまいな記憶によると、京浜東北線で鶴見に出て、鶴見線のホームに上がり、茶色い電車の鶴見線に乗って川崎の工業地帯を行ったり来たりしたのだと思います。
鶴見駅では鶴見線のホームへ行くのに改札口があって、「同じ国鉄なのに乗換で改札口があるのは変だなあ。」と思った記憶と鶴見線の古いホームをおぼろげに思い出すだけです。
そして、夕方近くになって、私は横浜から帰ってくるC57を出迎えに品川駅へ向かいました。
私はかなり早く品川駅に着いたのですが、列車到着時刻が近づくとホームには徐々に人があふれ始め、C57が到着した時には鈴なりの人であふれんばかりの活況でした。


今、何かイベントがあると、すごい人が列車を取り囲みますが、当時もこんなにすごかったんですね。
小学校6年生としては、この人ごみの中で、よくシャッターを切ったもんだなあと思います。
この後、私は川崎駅へ向かいました。
C57の列車が横浜の車両基地に回送されることを知っていたので、先回りして迎え撃つためです。
ところが、川崎駅のホームでいくら待っていてもC57はやってきません。
カメラを持っている人がいたのでたずねてみると、C57は貨物線を経由して横浜の機関庫に帰ったから、ここで待っていても来ないよ、と言われました。
現在では横須賀線が走る線路は当時は貨物専用線で、その存在は知っていたものの、まさかそちらを通るとは思っていなかったわけです。
今のように情報をいろいろなところから拾うことができなかった時代ですから、こういう大きな失敗もたくさんあったのです。
仕方なしにカメラの中のフィルムを消化する意味で、川崎駅でやってくる列車を数カット撮影したのがこの写真です。

[:up:] 東海道線普通列車の113。 デカ目です。

[:up:] こちらは横須賀線。やはりデカ目ですね。

[:up:] 急行「東海」がやってきました。153系です。
当時の東海道線の急行は153系が主で、165系というと上野口と新宿発の急行電車に使われていました。また、この夏から外房線の急行がキハ28の急行が165系へ変わった時でもありましたが、東海道の主役は153系で、普通列車にはまだ80系電車が日に数本静岡から東京まで入ってきていました。

[:up:] 横須賀線がもう1本来ました。こちらは新車のシールドビーム。東京地下駅乗り入れ用として、横須賀線にも1000番台、1500番台とかが増備され始めていたころです。

[:up:] そして最後はブルートレイン。多分1列車「さくら」だと思います。
当時のブルトレはEF65-500番台が担当していましたが、昼間の「桜島・高千穂」と夜の「銀河」といった急行列車はEF58でした。
EF65がブルトレの先頭に立って走っていく姿は、とても恰好よく見えたものです。
この1列車を見送って、私は家に帰りました。
手には塾の教科書が入ったカバンをぶら下げていましたが、結局は塾へは行かずじまいでした。
サボってしまったのです。
人生で初めてサボることを経験したのがこの日であったのですが、今思えば、小学校6年生でサボることを覚えたこの日を境に、私の不良少年としての行動が始まったことだけは確実のようです。
(おわり)