45年ぶりの雪だって

ニュースによると、東京の積雪27センチは45年ぶりの大雪だそうです。
最近ではあらゆるもののデータベース化が進んで、数十年ぶりという記録がいとも簡単に出てくるようですが、「仙台の積雪は78年ぶりの記録だ」という話を聞いても、そんなことは誰も覚えているわけじゃないので、発表する意味があるのかなあと思ったりします。
でも、45年ぶりというのは、そんなに現実ばなれした数字ではなく、「あの時はすごかったなあ。」という人たちが今もしっかり生きていますから、「へえ、そうなんだ。」と話のタネの一つにはなるんじゃないでしょうか。
かく言う私も、45年前の大雪のことは覚えていて、懐かしいなと思う一人であります。
その45年前の大雪と一言で言いますが、実は相当昔々のことで、どのぐらい昔かというと、その時、私は小学校2年生でした。
学校では友だちと雪遊びをしたし、通学の道々で道草を食っていたことも覚えていますが、私の場合はどうしても電車にかかわる記憶ばかりが鮮明で、あとのことはおぼろげながらにしか残っていないのですが、その電車にかかわる記憶というのは、こんなことです。
当時は、今よりもよく雪が降った記憶があり、この年も何度か大雪に見舞われたようですので、記録的な豪雪になったその日のことかははっきりしませんが、東京が大雪に見舞われた日、記憶によると、学校から帰った私は、雪が降り出したのにもかかわらず、赤羽線(今の埼京線)の板橋駅から電車遊びを始めました。
その時は、池袋で山手線に乗りかえ、新宿で総武線(中央緩行線)に乗りかえて中野方面に出かけました。
なぜ総武線に乗りに行ったのかというと、私は子どもの頃から先頭車両の最前部で前面展望を楽しむ趣味があって、ところが、山手線の103系電車は、客席と運転席との仕切りにある窓の位置が高くて、子どもの背ではその窓から前方を見ることができなかったんです。
でも、総武線や中央線の101系電車は、仕切り壁についている窓が大きくて、子どもでも楽に前が見られる。まして総武線には茶色いチョコレート電車がまだ残っていましたから、どの電車が来ても前面展望が楽しめたのです。
ところが、新宿に着いたころから雪が強くなり始め、乗った中央線は途中の中野止まりになりました。
本当ならば三鷹とか武蔵境へ行くのに、「この先へは行きません。」とアナウンスしています。
中野に着いてホームに降り立ったら、反対側の電車がちょうど発車するところで、ホームのアナウンスは、「この電車が発車したら、この先しばらく電車は出ません。」というようなことを言ってるのです。
終点に着いたら、折り返し電車の一番前に乗り移るのがいつもの私ですが、今乗ってきた電車はしばらく発車しそうにありません。
私は不安になって、反対側のホームから出る電車に乗ろうか、どうしようかと考えていましたが、「やっぱり乗ろう」、と思った瞬間にドアが閉まってしまいました。
すると、目の前にいた車掌さんが、「乗るのか?」と声をかけてくれました。
「うん」とうなずくと、こっちへ来い。と言って、私を乗務員室の扉から中に入れてくれたのです。
記憶にある限りでは、この時入れてもらった101系電車が、人生初の運転室体験だと思いますが、私が乗ると同時に発車した電車がホームを離れるころ、車掌さんは乗務員室と客室との間にある扉を開けて、私を客席の方へ入れてくれました。
新宿に着いて山手線のホームに行くと、すでに夕方のラッシュが始まっていましたが、雪のために電車がなかなか来ません。
しばらく待ってやって来た電車は満員で、それでも何とか乗り込むと、いわゆる殺人的な混雑というヤツで、小学校2年生の私は押しつぶされそうになりました。
私はドアの窓から外を見たくて、ガラスにぴったり付いていたのですが、そこが一番混雑がひどいところだということは、当時は知る由もありません。
すると、隣に立っていたおじさんが、「ボウズ、大丈夫か?」と声をかけてくれて、「おーい、ここに子供がいるんだ。あまり押さないでくれ。」と周りの乗客に伝えてくれました。
私は、不要不急の電車遊びをしているにもかかわらず、車掌さんや見ず知らずの乗客のおじさんに助けられたんですね。
今回の雪でも、ニュースでは、「不要不急の外出は避けるように。」としきりに言っていましたが、この時のことを思いだすと今でも耳が痛いですね。
あたりはどんどん暗くなり、雪はさらに強くなりましたが、何とか板橋駅まで戻ってきた私は、自宅に帰り着くことができたのです。
今でもこうして鮮明に記憶していることを考えると、小学校2年生の私にとってはとても恐ろしい冒険だったと思いますが、その後も何食わぬ顔をして電車に乗る遊びを続けました。
東京育ちの電車好きの子供としては、複雑に張り巡らされた東京の乗り物を乗りこなすということは、当たり前だと、当時の私は考えていたんだと思います。
45年前、昭和44年に東京に大雪が降ったころの私の思い出です。

昭和44年といえば、大型のヘッドマークを付けたキハ28が千葉の看板列車として君臨していたころ。雪が吹き付けて、「そと房」だか、「うち房」だか、はたまた「犬吠」だかわかりませんが、キハ28が通り過ぎて行きます。
今のいすみ鉄道の観光列車の元祖がここにあります。

当時はもちろんSLの天下。この年限りで引退する運命にあるD51がまだまだ幅を利かせていたころです。
この写真は、私の空港時代の先輩の山路善勝さんが撮影したもので、複々線化工事が始まった下総中山―西船橋間です。
今は快速線と複々線化されて高架になっていますが、東西線と分岐して海側に変電所があるあの辺りです。
山路さんはいすみ鉄道商品の「房総のけむり饅頭」の写真を撮影された方で、今もお元気でいすみ鉄道に遊びに来られます。
当時、カメラは貴重品でしたが、雪が降ったとあって、貴重なカメラを持ち出して写した記録写真。コンデジ全盛の今とは時代が違いますから、当時から山路さんにはかなり根性が入っていたことがわかります。
鉄道趣味も脈々と受け継がれているのですね。
さて、私の根性は誰が受け継ぐことになるのでしょうか。