世の中の制度を考える

今の日本人はおかしい。
こんな民族じゃなかったはずだ!
埼玉の退職金の話もそうだけど、すべての基準がお金で判断されて動いている。
そんなことをやってきたから、お金じゃ買えないような大切なものはすべて排除されて、みんながお金に走ってしまうようになったんじゃないか。
今の日本人は、お金はツールではなく、お金にツールにされている、つまり「お金に使われて振り回されている」としか思えない。
最近、年を取ったのか、こんなことをよく考えるようになりました。
そこで徒然なるままに心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き綴ってみたいと思います。
しばしお付き合いのほどを。
まず最初は「官僚」について。
昨今やたら官僚がやり玉に挙げられていますね。
でも、官僚っていったい誰のことで、その人たちはふだん何をしているのでしょうか。
私もそうですが、ふつうの人は官僚の存在は知っていても、具体的には知らないんじゃないかと思います。
では、なぜ官僚がやり玉に挙げられるのかというと、政治家が自分の思うようにいかないとき、自分の能力不足を棚に上げて、「官僚制度が悪い。」なんて言っているから。
そして、それをマスコミがバイアスをかけて国民に伝えている。
で、悲しいことにその報道を見たり聞いたりした国民が「そうだそうだ」という。
これ、おかしいと思いませんか?
だって、私も含めてですが、ふつうの生活をしている国民の皆さんは、官僚に接する機会はそんなには無いはずでしょう。少なくとも「あいつらはけしからん!」と判断できるほど官僚と話したこともなければ、友達にもいないはず。
それなのに「官僚が悪い!」といきなり言うのは、誰かの口車に乗せられて感情的に言っているだけで、じゃあ、国の仕組みの中で官僚の人たちがどんな仕事をしているのか、という勉強も検証もしていないのが本当のところじゃないでしょうか。
では、国民の感情として「官僚はけしからん!」というその官僚とはいったい誰なのかというと、皆さんが想像する官僚とは、たいていの場合、役所の窓口で接する職員であったりするんじゃないでしょうか。
役所は民間企業から比べると面積当たりの職員配置数が多く見えたりして「えっ、なんでこんなにたくさん人がいるの?」なんて感じたり、仕事内容が楽そうに見えたりするし、そういう職員からぶっきらぼうな対応をされて腹が立ったりすることもしばしばありそうですから、「あいつらはけしからん!」となる。その相手を「官僚」と思っているんじゃないでしょうか。
でも彼らは官僚ではありません。
ふつうの役所の職員で、一般の公務員です。
官僚というのは中央の役所の中で指導的立場にいるごく一部の公務員のことです。
では、官僚の人たちはどんなことを考えているかというと、私の同級生でも東大法学部を出て通産省に入った人がいるけど、とにかく一生懸命勉強をするし仕事もする。
ウソだと思ったら、国会会期中の夜11時12時に霞が関に行って見てください。
どの省庁も窓に電気が付いていますから。
そして、官僚の人たちは、「このままで行ったら日本の国はとんでもないことになる。」と皆さん真剣に考えていて、何とかしなければならないと思っているんです。
問題なのは私たち国民がふだん接する行政書類の手続きの窓口にいる人たちで、そういう人の一部に「前例主義」を徹底している人たちがいて、そいつらが「ふざけるな」と叫びたくなるような人種なわけなのです。
で、国民はそういう末端の公務員もイコール「官僚」だと思ってしまうから、それが官僚バッシングに拍車をかけることになる。
私はそう見ています。
まあ、組織ですから、TOPの官僚がいくら国の将来を考えていても、末端の窓口職員がその意向を反映させることなく、木で鼻をくくったような態度ならばその組織は組織としておかしいわけですが、それを言い出したら、いすみ鉄道のような小さな組織でも、社長の考えが末端まで浸透しているとは思えませんから、別の問題として担当の現場現場で考えて行かなければならないということになります。
私が何を言いたいのかというと、このまま無責任な官僚バッシングが続くようなことになると、誰も官僚を目指す人がいなくなってしまうということで、優秀な人間が官僚になるような制度を維持していかないと、この国は烏合の衆ばかりになってしまうということ。
待遇や社会的地位も含めて、優秀な学生たちが世の中を何とかしようと官僚を目指す社会システムを維持しなければならないことは必須なのです。
だって、昔は、と言ってもわずか数十年前までは、例えば山の中の貧しい村でも、ある家に優秀な子どもが生まれると、村人総出で教育を受けさせるために資金を融通し合って中央に送り出す、何てことは日本全国どこでも行われていたんですから。
そのために考えなければならないことは2つです。
1つは、官僚になる人たちは学業成績が優秀なことばかりが重んじられて実践に弱い体質であってはいけないということ。困った人を見たら助けるとか、人間としての基本的な部分がしっかりした人を育て上げるシステムが必要だということ。とかく勉強ばかり重視していると人間形成がおろそかになってしまいますから、そういう人に日本の将来を任せることはできなくなります。そして、そういう優秀な人を前例主義にとらわれずに思い切って仕事ができる勇気ある人を育てなければならない、そういうトータルなシステムが必要です。
もう1つは、自分より優秀な官僚や官僚候補者をねたまないこと。
人間ですから自分より美人だったり優秀だったりする人を見るとねたみや反感を覚えるのは仕方ないとは思いますが、日本国民の中からそういう優秀な人を見つけ、世に送り出すのも一般の人の役割だと思うわけです。
皆さん、「官僚バッシング」をするのは反対しませんが、その前に「官僚」の仕事や人物像をよく勉強するのが筋だと思いませんか。
外務省で実は中国とのパイプ役がいないとか、防衛的な交渉者がいないために基地問題がギクシャクしているとか、みな官僚バッシングの結果として発生している政治的弱さなのだと思います。
政治家やマスコミが言うことが正しいと思っていると、ヒットラーのような人が出てきた時に国民全体があっさりと騙されるということは、歴史が証明しているのですから。