旅行の歴史 2

サージェントペパーズロンリーハーツクラブバンド。

 

いきなりカタカナの羅列で恐縮ですが、50代以上の人ならわかりますよね。

今朝のニュースでやっていましたが、このビートルズのアルバムが発売されてから今日で50周年だそうです。

50年前といえば昭和42年。私が小学校に入学した年ですが、その頃いったい日本人はどんな暮らしをしていたのかというと、戦後20年が経過して徐々に人々の暮らし向きがよくなり、生活に余裕が出て来た時代でした。

そうなると、どこかへ行きたいという欲求が高まってくるわけで、かといって海外旅行など現実的ではありません。何しろ日本人が海外旅行へ自由に行かれるようになったのはその数年前の昭和39年で、それまでは日本人は業務出張等で出かける以外は海外渡航はできない時代でした。渡航自由化となってもパスポートを取るためには銀行へ行って預金残高証明書をもらってこなければなりませんし、1ドル360円の時代で、外貨持ち出し制限も厳しかたですから、海外旅行などは選択肢に入っていません。

そうなるとどこへ行きたいかと言えば当然近場の観光地で、年に1度か2度、家族で1泊旅行ができれば、「幸せな家庭」だったのです。

 

では、どういうところへ一泊旅行へ行くかと言えば、東京の人だったら伊豆、箱根、日光、伊香保、そして房総といったところでしょうか。昭和30年代に国民の健康増進のためにはレクリエーションが必要だということで法律が整備されて、全国各地に安価で宿泊できる国民宿舎というものが登場しましたから、皆さんこぞってそういう施設に宿泊したのです。

あとは、企業などが所有する保養所などというのも各地にあって、特に公務員の人たちは優先的に泊まれる行政の保養所などというのもありましたから、お父さんが大企業に勤めていたり、国家公務員だったりすると、みんなにうらやましがられたものです。

私は勝浦におばあちゃんの家がありましたので、毎年夏休みになると両国から汽車に乗って勝浦へ行きましたが、クラスの友達からは「いいわねえ、海の近くに親戚がいて」などと羨ましがられました。その頃の房総半島はとにかく汽車が混んでいて、夏休みになると特別なダイヤが設定されて臨時列車がたくさん運転されていましたし、海水浴場も大賑わいで、朝一番で浜に行かないとパラソルを立てる場所も確保できないほどでした。

それは何も房総半島ばかりじゃなくて、東京というところはもともと田舎者の集まりですから、クラスの中には群馬や福島、秋田や静岡など、お父さんやお母さんの出身地の田舎へ出かける人たちがいて、私は千葉でしたので、遠くへ行かれる友達がうらやましく思ったものでした。

 

さて、そういうところへレジャーに行っていた人たちはどういうところへ泊っていたかといえば、千葉の場合はたいていは民宿で、つまり、田舎の人たちが自分たちが寝ているところをお客様に提供して、自分たちは納屋や物置で寝るなんて状態でした。今の民泊とはまったくレベルが違っていて、まあ、畳の部屋に家族で寝るわけですが、ふすまで仕切られていればよい方で、中には大広間のようなところに知らない人同士が、それぞれ四隅に家族ごとに集まって布団を敷いて寝るなんてのは当たり前で、個室なんてのはありませんでした。

国民宿舎はほとんどが鉄筋コンクリート造りでしたから民宿に比べればはるかに見た目は良かったのですが、それでも部屋は10畳程度の個室で、トイレは廊下の突き当たりに共同で設置してあって、風呂は大浴場。食事は決まった時間に食堂へ行くと、部屋番号が書かれた紙が置いてあって、他のお客さんと一緒に食べるスタイルでした。

それでも、当時の都会では4畳半や6畳一間の木造アパートに家族全員で暮らしているなんてのは当たり前でしたから、鉄筋コンクリートの建物で10畳の部屋、食堂でテーブルに椅子でご飯を食べると、「おお、我が屋とは違うなあ。」と思ったものでした。

つまり、これは非日常感の体験であって、日常から脱出することがレクリエーションであり、健康増進には必要だったということなのです。

 

その意味では、今の旅行も基本的には非日常体験ですから同じなんですが、では、非日常体験というのは何なのでしょうかと考えた場合、特に日本がまだ発展する途中にあった50年前では、日常生活が貧しい時代でしたから、より上質なものを求めることが非日常体験の目的でした。だから木造アパートに住んでいた人たちにしたら鉄筋コンクリートの国民宿舎で満足しましたし、クーラーなどない時代でしたから、海水浴へ行って海に入ることで涼しい思いもできたのです。

 

そういう時代は良かったのですが、日本が経済成長の波に乗って国民の生活レベルが向上してくると、例えば6畳一間に家族で暮らしていた人たちが郊外に夢のマイホームを持ったりマンション生活になって行きました。すると、非日常を体験するために旅行へ行くのに、国民宿舎の10畳一間の部屋では物足りなくなります。まして民宿で知らない人と同じ部屋で雑魚寝などというのは受け入れられません。これが昭和40年代後半で、そのころを境に急に房総半島にはお客様が来なくなったのです。

でも、同じ東京から1泊の地域で、伊豆半島は早くから近代的なホテルができ始めましたので、昭和50年代半ばごろまでは、伊豆半島の海岸は海水浴客がまだ多く集まっていました。

その理由は、房総半島には温泉が出ませんでしたが、伊豆半島には温泉が至る所で出たということが大きいと思いますが、実はそれだけではなくて、伊豆半島に比べると房総半島は山がなだらかで平野も多いですから、漁業だけでなく農業も酪農も盛んです。これに対して伊豆半島は山が急峻で平野が少ないですから作物がなかなか収穫できない。だから、観光客で生計を立てて行かなければならないという切迫感がありましたが、房総半島は米も野菜も魚も肉も取れる豊かな土地でしたから、特に観光に頼らなくても生活できたことがあります。この部分が大きな分かれ道になりましたから、伊豆半島の人たちは設備投資をして近代的なホテルが立ち並んで、つまり都会人の生活様式の変化に伴うニーズの変化に対応できたのに対し、房総半島では「観光なんか遊びだろう。」という考えが蔓延していましたから観光を産業としてきちんと設備投資をしてこなかったわけで、日本人の生活向上に合わせることができませんでしたから、民宿などという片手間の観光業は急速に衰退していったのです。

 

▲電化直後の上総興津。

電化と共に急行列車も冷房車が走りはじめ、子供ながらに「ずいぶん近代的になったなあ。」と思いました。

 

 

房総東線(外房線)が電化されたのが昭和47年7月ですが、歴史を振り返ってみると、不幸なことに国鉄が多額の設備投資をして電化が完成し、これからもっと輸送力を増強できるとなった時を同じくして、房総半島の海岸から海水浴客が急激に消えて行ったのです。

 

(つづく)