元田中 その2

昨日のブログで叡電と京都市電が平面クロスする元田中のお話をしました。
すると、すぐに同級生の高瀬君が写真をUPしてくれました。

おぉ、ここだここだ。
「あれ? 一緒に行ったっけ?」

私も記憶にないし彼も記憶にないらしい。
私は1977年から1978年にかけて何度も京都に行っていたので、もしかしたらそのうちの1度ぐらい一緒に行ってるかもしれませんけど、いかんせんお互いに記憶がないのだから仕方ありませんね。

京都市電のネガの同じフィルムには東京駅の大垣夜行の写真があって、

その後には大垣駅で西明石行に乗り換えるホームの写真がある。
165系じゃなくて153系の時代です。
高瀬君と一緒に行ったとしたら彼にも記憶があるだろうか。

記憶が一致したのは横浜の高島貨物線にC58‐1が走った時に一緒に行ったこと。

確か発車のシーンを貨物駅のようなところで撮影した後、マリンタワーに登って上からC58を撮ったよね、と言ったらすぐに写真を送ってくれました。

すごいな。
すぐに出てくるなんて。

この時、私はこの場所にいたのであります。

高瀬君は高校の同級生で家は西武池袋線の椎名町。
私の住んでいた板橋からはラッタッタに乗って10分ほど。
ラッタッタというのは当時流行っていた原付バイクの呼び名で、まだ原付はノーヘルOKの時代だったので、私はいつも身軽な格好でラッタッタに乗って高瀬君のうちに遊びに行きました。

椎名町は今はどうなっているかわかりませんが、当時はあまり栄えてなくて、駅から少し歩いて角を曲がったところに帝銀事件の現場がありました。

帝銀事件は興味のある人は調べていただければと思いますが、最初に行ったときは家の場所がわからないので確か西武線で行ったんですけど、改札口に迎えに来てくれていた高瀬君が、家に案内してくれる道すがらだったかな。
「ここ、帝銀事件の場所なんだよ。」
と言ったので、私は
「薄気味悪いところに住んでるな。」
と思ったことを思い出しました。

高瀬君はお父さんも鉄で、お父さんの影響だったからでしょうか。
尾小屋とか別府(べふ)とか西大寺とか、若い割には結構ゲテモノ系に興味があるようで、私は国鉄の長編成の急行列車や特急列車の編成美に酔いしれるタイプでしたので、同じ鉄でも嗜好が全く違っていたことを覚えています。
高瀬君のお父さんは8ミリフィルムにも凝っていて、部屋を暗くして映写機で動画を見せてくれましたが、その8ミリカメラを借りて、やはり京都へ行って京都市電を撮影したことも思い出しました。

あのフィルム、どこへ行ったんだろうか。

高瀬君は地元の大学の芸術学部へ行って、その後日本テレビに入って放送の世界で活躍して、今は制作会社を経営しながら後輩の育成にも力を入れているという充実した人生を過ごしてきたようで、その点では私も負けず劣らず好き勝手なことをしてきましたので、高校生のころの体験がお互いに何かその後の人生に影響したのかもしれません。

さて、私が今夜何を言いたいのかというと、やはり、若いころにたくさん友達を作って、いろいろな経験をしておくことはとても大事なことで、その時には気が付かなかったとしても、あとになって自分の人生の血となり肉となっていることがわかるようになります。

特に鉄道好きな人たちがそうですが、スポーツなども含めて同じ趣味嗜好の人たちが交流する姿を見ると、学校や地域や世代を超えて交流することができますから、若いときにそういう経験をしておくと、人生きっと楽しくなると私は思うのであります。

例えばこの2人、どう見ても親子かそれ以上に見えますが、実はトキ鉄で知り合った友達なんですよ。
面白いでしょう。

これからの時代は人生百年時代ですから、一生懸命勉強をして、いい大学に入って、いい会社に入ったところで60歳か、あるいはそれ以前に放り出されてしまうのですから、私たちの時代とは価値観も違えば目標設定も変わってきます。
いろいろな人生が待っているのですから、だったら若いときに幅広い交流を持って、いろいろ経験しておくことが大切ではないかと思うのであります。

高瀬君、写真色々見せてくれてありがとう。

近いうちに会えるといいね。