急行「出雲」

今でも残る貴重な寝台特急「出雲」

今はサンライズという冠がついていますが、その前はブルートレイン。
東京と山陰地方を結ぶ伝統の列車で石破茂さんは「数えきれないほど乗った」と言われるほどですが、この列車は昔から乗車率が高く、寝台券が入手しずらい列車と言われていました。

特急化されたのは確か1972年(昭和47年)の新幹線岡山開業時。その前は急行「出雲」としての歴史があります。

そう、急行「出雲」と言えば、鮎川哲也先生の小説ですね。
西村京太郎が世に出る前の列車ミステリーの代表作です。
なんだかんだで私も中学生のころ読んだ記憶があります。

さて、その急行「出雲」ですが、私にはおかしな思い出があります。
確か昭和43年の暮れか44年の1月頃だったと思います。
父親が会社の旅行ということで、急行「出雲」に乗る。
家族全員で東京駅まで見送りに行こうということになりました。
まだ小学校入学前の妹も、ちょっとだけよそ行きの格好で。
東京駅で会社の人たちに会う時に、汚い格好をしていたら恥ずかしいからということだったと思います。
当時は普段着とよそ行きが完全に分かれていたのだと思います。

開通したばかりの都営三田線(当時は都営6号線)に乗って巣鴨で山手線にお乗り換えです。
地下鉄の階段を上がったところ、国鉄の改札口の手前の所に靴磨きが居ました。
今ではあまり見かけなくなりましたが、当時はいろいろなところに靴磨きのおじさんやおばさんが居ましたね。

父は、何を思ったのか、その靴磨きの所で立ち止まりました。
そして、靴を磨いてもらい始めました。
これから出かけるのだから、靴もきれいにしなければならない。
ソフト帽をかぶって通勤していたオシャレな父らしい行動です。

でも、急行「出雲」の発車の時刻まで、そんなに余裕はありません。
母と私がやきもきしながら、父が靴を磨いてもらっているのを待ちました。

山手線に乗って東京駅へ向かうと、案の定、ギリギリです。

既に発車のベルが鳴り終わり、汽笛一声、静々と列車が動き始めるタイミングでした。

子供たちに「じゃあな」と言って、父が階段を駆け上ります。
私もあとを追いかけました。
階段の上までくると、父が駅員さんに抱きかかえられている姿が見えました。
急行「出雲」はテールランプを見せながらホームから離れていきます。

「あ~あ、カッコ悪いね。」
「だから靴磨きなんかしなければよかったのに」

私と母からそう言われ、父は開き直りながらこう言いました。

「俺は毎日学校に行くときに汽車に飛び乗っていたんだぞ。あの駅員が止めなければ十分に乗れたんだ。」

そう、階段をかけ上がって列車に走り寄る父を、駅員さんが後ろから抱きかかえて止めたんです。

昔は発車していく列車に平気で飛び乗ったり、列車が完全に止まる前に飛び降りたりする人がたくさんいて、それがふつうだったんです。
列車のドアが走行中に開く車両でしたからね。

でも、家族にみっともない姿見せて、馬鹿だよね。
当時まだ父は30代半ばだったので、自分の体力はまだまだ行けると思っていたのでしょう。

駅員さんが近くに居なければそのまま何気なく乗って行ったのでしょうけど、もしミスって転落していたら私は母子家庭になっていたわけで、まぁ、世の中わからないものですね。

実際、国鉄末期には地方都市にはドアが開いたまま走る旧型客車の列車がたくさん残っていて、高校生の転落事故って年間100件近くあったと思います。
汽車から落ちて死ぬなんてことは、大したニュースにもならなかったんですよね。

昨日、上越に戻るときに東京駅の階段を見かけて、急にこんなことを思い出しました。
確か、この階段だったかな。

昭和7年生まれの父は69歳で亡くなりましたが、気が付けば今日6月11日はその父の誕生日。

ふと、そんなことを思い出しました。
なぜ、思い出したんだろう。

父よ、まだ、俺のことを呼ぶなよ。

ところで、急行「出雲」に乗り遅れた父はどうしたかと言うと、急に踵を返すように新幹線のホームに向かいました。

旅行から帰宅した父に訪ねたら「新幹線で小田原まで行ったよ。出雲が来るまでずいぶん待ったよ。」と言ってました。

新幹線が開業してまだ数年。
「そうか、その手があったか。」
という時代でした。

出雲は座席車だったのか寝台車だったのか、聞いた記憶はありませんが、撮った写真にはC57か何か、蒸気機関車が写っているものがありました。

昭和の日本人はたくましかったのです。
こんな画像を見ると、よくわかりますね。
汽車から落ちる方が悪い。
そういう時代だったのです。

https://www.youtube.com/watch?v=q46dgvSsUhM
▲命がけだった上野行724列車