おっぱいと 汽車と 「昔はよかったんだぞ。」というお爺さん。

本日のYAHOOニュースにはこんなタイトルで記事を書いてみました。

 

過ぎ去った過去というものは、誰にとっても優しいものです。

つらかった思い出も、月日が経過すれば懐かしい思い出になります。

だから、誰だって自分の人生を振り返るとき、「昔はよかったなあ。」と言うものなのです。

 

ただし、現在70歳代の人たちの場合はちょっと違います。

 

戦後、1950年代から2000年代後半ごろまでの約60年間に私たち日本人が経験した経済成長や、あるいはそれに伴う生活の向上というものは、おそらく長い人類の歴史の中に於いて初めて経験するような、急速かつ高度な、特別なものだったんです。

バラックに住んで、食べる物にも着る物にも事欠いていた日本人が、わずかの期間に冷暖房完備で何不自由ない生活ができるようになった。

煙を吐いてのんびり走っていた汽車が時速300キロで走る新幹線になり、ごく一部の人の乗り物だった飛行機に、隣町までタクシーに乗るような金額でサンダル履きのふだん着で乗れるようになった。

これは、私たち人類がかつて経験したことのないような、急速でかつ高度な変化で、実は奇跡のようなものなのです。

 

そして、今70代のおじいさんたちは、彼らの人生の中でそういう変化を目の当たりに見てきた。

ウハウハの高度経済成長を経験してきた人たちなんです。

 

でも、本当は人類の歴史上きわめて稀な、奇跡に近いようなことだったのです。

そして、今の世の中は急速な成長期は遠の昔に過ぎ去って、抜け出せないような停滞期にあります。成長が期待できるとっても、極めて緩やかで安定的な成長しか望めないわけですから、彼らが経験してきたようなことは起こらない。

そして、世の中はAIを含め、全く別の方向に行こうとしているのです。

 

ということは、彼らが経験してきた時代というのは、極めて特殊な、人類の歴史上奇跡のようなものなのですが、そういう時代に生きてきた彼らは、それがふつうだと思っているのです。だから、「お前たちだって、頑張ればできるだろう。」と。

でも、その時代は、彼らにとってみればふつうで当たり前のことかもしれないけれど、これからの日本の世の中では起きることはない特殊な時代だったわけですから、つまりは彼らの経験則は、将来的には使えないものだということなのです。

 

昔の人には知恵があります。

だから、「先人たちの教えをよく聞きなさい。」ということが、昔から言われています。

それは、世の中がゆっくりと、安定的に、今までの延長線上に発展していくことが前提です。

 

昔のような急成長は、これからの世の中に期待できないだけでなく、今までとは全く別の方向に行こうとしているようなときには、先人たちの経験は邪魔になるだけで、役に立たないのです。

 

かつて、奇跡のような急成長を遂げたようなことが、今後、同じようなことが発生する前提であれば、「昔はよかったんだぞ。」という先人たちのお話が将来へのアドバイスとして役に立ちます。

でも、彼ら70代の人たちが、子供のころから経験してきたような世の中の物質的変化は、彼らにとっては懐かしく「ふつうのこと」かもしれませんが、人類の歴史上は奇跡であり、これから同じようなことが続いていくわけではありません。

 

「昔はよかったんだぞ。」と言われたところで、何のアドバイスにもならないということなのです。

 

よく、「発想の転換とはどういうことですか? 教えていただけませんでしょうか?」ということを尋ねられますが、つまりはこういうことなのであります。

 

https://news.yahoo.co.jp/byline/torizukaakira/20190111-00110841/

 

新しい一年をどうやって切り開いていこうか、若者たちは一生懸命に奮闘努力しています。

 

日本全国のリーダーの皆様方には、こういう基本的なことをご理解いただいたうえで、若者たちに手助けやアドバイスをしていただきたいと、切にお願い申し上げます。

1 個のコメント

  • はじめまして、Yahooニューズを拝見してこちらにたどりつきました。
    近いうちに菜の花を見に鉄道と高速バスで房総半島に行こうと準備している最中なのでびっくりしました。記事で紹介している時刻表1974年7月号も、いま手元にあります。房総夏ダイヤ、快速青い海、懐かしいですね。
    私は1962年生まれ、東京都区内の海から離れた地域で暮らしています。房総には幼い頃父と祖母に連れられて観光旅行に出かけた時(当時は房総西線でディーゼルでした)を皮切りとして、高校生の頃(1978~80年。まさに、勝手にシンドバッド~いとしのエリーの頃)には学校の水泳合宿で毎年訪れていました。今ではもはや夏という言葉さえふさわしくないほどの炎熱地獄が例年の気候になっていますが、高校生時代は最初の年だけ暑くて後は冷夏、散々な思いをしました。それでもなお、房総で水泳を覚えて、海を好きになれたことは生涯の思い出です。夜にはサザンの歌や昔のフォークソングをたくさん歌いました。
    房総に縁を持つ鳥塚様のお話を拝読して、当時は無我夢中で考えるべくもなかった、都会からの人を受け入れる側の気持ちをわずかでもうかがうことができました。貴重なお話をありがとうございます。
    私の感触では、1980年代半ば(昭和50年代末)ごろまで、鉄道を利用する房総の海水浴客は決して少なくありませんでした。高校卒業後自分で出かけた際(1983年夏)に、館山駅の国鉄バス乗り場や夕方の上り快速青い海の車内風景を撮影しましたが、家族連れの海水浴客が大勢写っています。1960~70年代の熱気には及ばないのかもしれませんが。
    1980年代までの房総半島は中学高校の合宿需要もあったはずです。大人や家族づれほどお金を落としてはくれないため、地元の方にはある意味「見えない来訪者」だったのかもしれませんが、そこで自然にふれあう思い出を作った層は今でも少なからず存在しているはずです。
    また、何年かはよく覚えていませんが、国鉄もサーフボード持ち込みを解禁しています。同じく1983年(昭和58年)夏に東海道線の113系に乗っていたら東浪見のサーフィン観光広告が天井近くの壁面に掲示されているのを見かけました。「湘南よまたの日に」と大書してあって、よくやるねーと感心したことをはっきり覚えています。房総の113系で乗客がサーフボードを立てかけている光景も幾度か見かけました。
    私は自動車を運転しません。免許を取る時に、無意識のうちに気を散らし、必要なものを見ているようで見ていない性格ということに気づかされ、運転したら必ずや事故を起こすだろうと自覚したためです。維持費を出せる自信もありません。大学生の頃から30年近くかけて北海道から沖縄まで全国各地回りましたが、常に公共交通機関利用でした。高校の合宿では生徒は普通電車や東京湾フェリー、指導役の卒業生は道具なども運ぶため自動車でした。当時の房総の道路事情では渋滞も激しく、鳥塚様のご記憶ほど便利なものでなかったのではないでしょうか。
    鳥塚様がおっしゃる、70歳前後の”長老組”がよい思いをしていた時期は、鳥塚様の見積もりのおよそ2倍、1960~80年代の20年ほどだったように思えます。それならば「昔はよかった」と威張るのも無理ないかと存じます。1980年代初めごろはまだ、国鉄も民宿も一応工夫していました。しかしバブル期を迎えると、小さな努力では追いつかないほどの価値観の変化が全国を急速に覆っていったということではないかと考えています。
    国鉄を悪く言う人は今でも少なくありません。
    しかし私は、宮脇俊三さんに近づこうと人の何十倍も乗りましたが、幸いにも国鉄の人で嫌な思いをすることはあまりありませんでした。地元の某私鉄会社の職員のほうがよほど愛想が悪く、気持ちよく乗ってもらう姿勢に欠けています。通勤路線で、黙っていても客が乗ってくることに甘えきっているのでしょう。
    むしろJRになってからのほうが、もうけ主義やファン排除姿勢を露わにしてきています。私は寝台急行銀河を愛用していましたが、それも含めてブルートレインを締め出して、新幹線に非ずば列車に非ず的な方針を打ち出した頃からひどくなって参りました。自社管内のみで完結させる超豪華列車のクルーズトレインなどは、鳥塚様のおっしゃる通り、人の「欲」に訴えかける商品で、決してよい姿勢ではありません。今でこそ耳目をひいても、お金を出せる人がひと通り乗ったらすぐに消えてしまう「未来のない」商売だと思えてなりません。地方の新幹線開通と幹線切り捨てセットが定着して、JR・民営問わず「キラキラネーム」横行の現状にやる気もなくなり、ここ数年はどこにも出かけなくなりました。老後資金の準備を考える年齢となり、少ない収入