偏差値世代の成れの果て その3

偏差値教育の害が、今、この国を壁に突き当たらせていると私は見ています。
逆に言えば、今の日本が壁に突き当たり、泥沼から抜け出せないでもがいているのは、もしかしたら偏差値教育のせいなのではないか。最近よくそういうことを考えるようになりました。
偏差値教育を受けた今の50代の人たちが、実はある種の社会現象を引き起こしていて、それが日本の国として大きな問題になっているのではないかということです。
前回、前々回とそういうお話をさせていただいておりますが、実は、私はそういう仮説を立てて、いすみ鉄道でいろいろ行動計画を立てたり商品を作ったりしています。
この仮説というのはどういうことかというと、今の50代は偏差値教育の真っただ中を生き抜いてきた人たちでありますから、その人の能力を測る物差しを1つしか与えられてこなかったわけで、私たちの時代、勉強ができる優秀な人間は、皆都会の大学へ行って、優秀な順番に人気企業へ就職していったのです。
学生に人気が高かった日本航空や東京海上、第一勧銀(現みずほ銀行)、トヨタ自動車などの一流企業には、あくまでも学校の成績の点でですが、一番優秀な人間が集まり、企業の順位が下がっていくにしたがって、入社する学生の偏差値も下がっていきました。(企業の順位なんてこと自体が今思えばおかしな話ですが、当時はそれが当たり前でした。)
それは民間企業だけではなくて、公務員になるのも同じで、一番偏差値が高くて優秀な人間は霞ヶ関に入り、その次に優秀な人間はその次の役所へ入りましたから、どういうことかというと、全国津々浦々の田舎の役場に30数年前に就職した人たちは、霞ヶ関にも、その次の役所にも偏差値で及ばず、入れなかった人たちだということなんです。
民間企業というのは時代の波という洗礼をもろに受けます。アメリカがくしゃみをしたとか、中東がドンパチを始めたとか、そういう社会情勢の変化に敏感になるのは当たり前で、そういう情勢の変化に迅速に対応しなければ生きていくことはできません。だから学生時代に偏差値が足りなくて、三流、四流の企業に就職したとしても、動物的な感を働かせて、世の中の荒波の中を泳ぐ力を付ければ、いくらでも活躍することができましたし、実際に無名だった企業が時代の波に乗って一流企業になった例などは枚挙に暇がありません。
ところが、公務員というのは、一旦会社(役所)へ入ってしまうと、よほどのことがない限り安泰と言われていますし、人事的にもシャッフルされることなく20年、30年という歳月を同じ環境で過ごすわけですから、簡単に言えば偏差値時代の名残がそのまま色濃く残っているわけです。
ましてや全国津々浦々の役所に30数年前に入った偏差値世代の皆様方は、それなりの方々なわけですから、それなりの仕事しかしてないわけで、それで良しという30年を送ってこられましたので、民間企業のような世界情勢の荒波にもまれるという経験もしてきていないわけですから、荒波の中に方向性を見つけて舵を切るというスキルも持ち合わせていません。
そして、今、その人たちが50代になって、年功序列で誰でも順番に全国津々浦々のリーダーになっているのですから、そういう地域が疲弊しているのを見ると、私は自分の仮説が正しいことに気が付きますし、地域の活性化とか、地方創生といっても、自分たちでは何もできませんから、名ばかりのコンサルが暗躍していると揶揄されるのも当然なわけです。おそらく、そういう地域では、50代のリーダーがいなくなるまでの今後数年間は、今のままでは革新的に浮上することはありえないだろうと思うのです。
ところが、そんな全国津々浦々の田舎にも、偏差値世代より上の団塊の世代以上の人たちの中には、前述のような理由で優秀な人たちがたくさん田舎に残っていますし、40代以下の人たちにも、偏差値的には優秀であっても、都会に出ることなく、田舎で勝負しようとしている人たちがたくさんいますから、そういう若い人たちからしてみたら、学生時代には偏差値が低く、社会人になってからも世間の荒波にもまれることがなかったような、スキルアップできないままに50代になってしまった人たちが役職だけ付いているのは、目の上のたんこぶのような存在で、そういう50代が偉そうに君臨している姿は、若い人たちにとっては実力を思う存分発揮することの妨げになりますから、全国津々浦々の田舎では、活力が生まれにくい構造になっているのです。
これが、昭和30年代生まれで偏差値教育を受けた世代の成れの果ての姿で、今、日本の全国津々浦々で君臨している地域のリーダーの中には、そういう人がたくさん含まれているわけですから、今回の「地方創生」でも、そういう人たちが地域の代表として霞ヶ関とやりあって勝てるわけがありませんし、決断力や企画力が乏しい人たちが運営している地域が、地方創生でどうなるかというのも、押して知るべしなのだと思います。
ところが、民間の中には地方の50代にもなかなか面白い人間がいて、そういう人たちは、たいてい東京へ出て修業を積んで実家に戻ってきた人たちだったり、大企業に勤めた経験があって、それを踏まえて田舎で活躍している人たちだったりするわけですし、民間の面白いところは、私のように偏差値教育から落ちこぼれた人間でも、偏差値教育で勝負できなかった人たちでも、社会に出たら活躍する場がたくさんあって、そうやって生きてきた人たちが、今の50代にはたくさんいるということも、これまた事実なのであります。
だから、地方創生で地域が浮上するためには、全国津々浦々の役場のリーダーたちは、そういう元気で、荒波の中を泳ぐことをものともしない判断力や、企画決断力を身に着けている地域の50代をうまく活用しながら、役場の中の40代以下の優秀な部下たちに思う存分仕事をさせてあげるような仕組みを作れば、自分たちの能力のなさを暴かれることなく、うまく仕事で結果を出すことができるわけで、それが定年までカウントダウンに入った生え抜き偏差値世代公務員の、正しい身の処し方だと、私は仮説を持って提案させていただきたいと考えるのであります。
まあ、人間力で勝負しましょうということですよ。
都会の優秀な人間の中には勉強だけは得意だけど、人間力のない人がたくさんいますから、田舎はそういう人間力と人の温かさで勝負するべきところなんです。
さて、誤解を招かないでいただきたいことが一つあります。
私が何度も申し上げている「優秀な人間」というのは、あくまでも偏差値世代の私たちが子供のころから教え込まれた、学生時代に勉強ができて高い偏差値を取ってきた人間のことでありますが、私たちの時代には、悲しいかな、その偏差値という物差し1つしか、学生の評価基準がなかったのです。
私の同級生には、当時、「僕は社会福祉の仕事をやりたい。」とか、「老人施設の職員になってお世話をしたい。」という人もいましたが、そういう友人に向かって、「お前何考えてるんだよ。そんなんで良いのか。」と周囲はからかっていた時代でした。だから「国鉄に入って新幹線の運転士になりたい。」という私自身も当然落ちこぼれだったということがお分かりいただけると思いますが、だいたい、当時の外資系の会社などというところも、優秀な学生よりもアウトロー的な人間が集まる会社で、「本当は日本航空に入りたかったけど・・・」という人たちが集まっていたようなところなわけです。
そう考えると、私と同世代の人でも、偏差値では勝負できなかったけど、思いやりがあって、人に親切で、誰にでも公平に接するなど、偏差値以外の物差しで評価される人はたくさんいますし、学生時代に偏差値が高かっただけで、人間としてはどうなのよ? という人も、大企業や中央官庁にはたくさんいるでしょうから、田舎がどこで勝負するべきか、ということは自ずと解るというものです。
このところをしっかり把握していないと、いくら地方創生といっても、いくら天からお金が降ってきたとしても、今疲弊している田舎は、そこに長年住んできた人たちが疲弊させてきたわけで、それなりの理由があるわけですから、今の態勢や考え方のままでは浮上することはできません。
田舎には都会にない田舎の良さというものがあって、そこで勝負しない限り、東京と勝負したって勝てるわけないのですから。
だから、いすみ鉄道では、仲間たちとみんな仲良く暮らすムーミン列車や、懐かしい昭和の国鉄形ディーゼルカーが走っている、ということなのです。
40代以下の若い皆さん、偏差値世代のおじさんたちの習性をご理解いただけましたでしょうか。
今の時代は、皆様方にとって、そういう人たちをうまく使っていくスキルを磨くまたとないチャンスですよ、というのが、偏差値世代の成れの果ての1人である私からのメッセージです。
(おわり)