歌に出てくる列車

応援団の山田さんが、太田裕美さんの「木綿のハンカチーフ」に出てくる「東へと向かう列車」というのは「あさかぜ」だと言うものですから、なんとなく気になって、今まで歌に歌われている列車というのはいったいどの列車なんだろうかと、いろいろ考え始めてしまいました。
まず、その「木綿のハンカチーフ」に出てくる「東へと向かう列車」ですが、私は「あさかぜ」を含めたブルートレインじゃないような気がします。
この歌は1974~5年頃作られたんですが、その頃の時刻表(すべて交通公社1974年7月号から引用)を見ると、東京へ向かう列車はたくさんありますが、新幹線だと歌詞にならないような気がしますので、岡山より向こうの出身だと思います。(新幹線は1972年に岡山まで開業)
それで、まあ、九州からだとして、恋人を故郷において東京へ出てくる青年は、1974年当時はブルートレインには乗らなかったと思うのです。20歳前後の男性にとってはブルートレインは高嶺の花で、選択肢には入らなかったはずなんですね。
だから、急行「桜島」「高千穂」あたりじゃなかろうか。
これなら東京に仕事を見つけに行く青年にぴったりではないかと思うわけですが、いかがでしょうか。
同じように、チューリップの心の旅(1973年)に出てくる、「あしたの今頃は僕は汽車の中」の「汽車」も上りの急行列車ではないかと思います。
財津和夫さんは福岡市のご出身ですから、博多からの上り列車に乗ったはずで、ビッグになることを夢みて東京に出てくる人間に「あさかぜ」や「はやぶさ」などのブルートレインは似合いませんから、やっぱりお金がない人の選択肢としては「桜島」じゃないかなあ。これだと乗車券と急行券だけで乗れますからね。
同じく「悲しきレイントレイン」もこのあたりの急行列車でしょう。
([:down:]画像をクリックすると大きくなります。)


[:up:] 急行「桜島」は一番左端です。西鹿児島を14:33に出て博多は20:24発。終着の東京駅には翌日の16:06ですから気が遠くなりますね。
太田裕美さんの歌では私は「赤いハイヒール」が好きなんですが、その歌詞の中に「東京駅に着いたその日は、私おさげの少女だったの」というのが出てきます。
このおさげ髪の少女は、いったいどの列車で東京駅に着いたのでしょうか?
上野駅だったら、おさげ紙の少女のほっぺは真っ赤だと思いますが、東京駅ですから、そばかす御嬢さんなんでしょう。
旅情派の皆さんでしたら、彼女が東京駅に降り立った列車は、やはり「ブルートレイン」と言われるでしょうが、私はなんとなく「新幹線」だったような気がします。
その根拠はその次に出てくる「ふるさとなまり」。
ブルートレインで九州から出てきた女の子は九州弁だと思いますが、「ふるさとなまり」というのはもう少し軽いイメージの、ちょっとしたアクセントの違いを連想します。
だから彼女が乗ってきたのは新幹線で、出身は静岡、岐阜、兵庫、岡山あたりじゃないかなあ。
イルカの「なごり雪」には「汽車を待つ君の横で僕は時計を気にしてる。」とありますが、この汽車はなんでしょうか?
「なごり雪」は若い人にはイルカが有名でしょうが、私たちの年代では何と言っても伊勢正三(正やん)ですね。彼は大分県の臼杵市の出身で、歌詞には「東京で見る雪は」と出てきますが、後に大林宣彦監督が同名の映画を大分で撮影したことからもわかるように、舞台は大分でしょう。
この歌では旅立つのは女性の方で、男性は見送る側になります。
大分から東京へ出てくるのは1970年代の初頭はやはり夜行列車だと思いますが、知り合いの九州出身のご夫婦の話を聞くと、ご主人は座席の急行列車、奥さんは寝台特急で上京していたそうですから、やはり女性の場合は、送り出す親の安心度を考えたらこの時代でも寝台特急になると思います。
「動き始めた汽車の窓に顔を付けて、君は何か言おうとしている。」というフレーズはまさしくB寝台の通路の窓のことではないでしょうか。

ところがこの仮説には大きな矛盾が生じます。
それは東京行の寝台特急「富士」が、津久見にも臼杵にも停車しないということ。
これでは現実問題としてこの歌詞は成り立ちません。
そこで、時刻表を1枚めくって次のページを見てみると、

大分から新大阪へ向かう寝台特急「彗星」が1日に5本も出ていたことがわかります。
宮崎や大分の人にとっては、この「彗星」に乗って新大阪乗り換えで東京へ向かうというコースが現実的で、なおかつ時間的にも早かったということなんですね。
ちなみに「東京で見る雪はこれが最後ね。」という歌詞ですが、東京は始発駅ですから、雪を見ながら夜行列車の到着を待つというのはおかしいのはすぐにお分かりいただけると思います。
さて、歌詞に出てくる「汽車」で、一番有名なのは「津軽海峡冬景色」の「上野発の夜行列車」でしょう。
では、この「上野発の夜行列車」とは一体何か?
私は青森駅に降り立って連絡船乗り場へ向かう無口な人の群れというのがポイントだと思います。
青森駅のホームは、連絡船乗り場への陸橋が一番先頭にあって、青森駅で下車する人は一番後ろになります。
当時の光景を知る者としては、連絡船の座席(座る場所)を確保するために、皆さん重い荷物を持って一目散に早足で連絡船乗り場を目指していたのは自由席のお客さんで、寝台やグリーン車のお客さんは連絡船の座席も確保されているのがふつうでしたから、ゆっくりのんびりとしていました。
「北へ帰る人の群れは誰も無口で」というのは、自由席のお客さんで、そういう庶民を歌っているから演歌になるんだと思います。
つまり、この上野発の夜行列車は寝台特急ではなくて自由席車が連結された急行列車。さしずめ「八甲田」か「十和田」あたりではないでしょうか。


前の晩の19:09に上野を出た「八甲田」は6:15に青森に到着して7:05発の連絡船35便に接続していますし、20:50に上野を出た常磐線経由の「十和田2号」は9:04に青森に着いて9:50発の連絡船37便に接続していますから、このあたりが歌詞にある「上野発の夜行列車」になると思います。
同じ急行列車でも奥羽本線経由の「津軽」は時間がかかりすぎるので北海道連絡の列車とは考えにくいですね。
その急行「津軽」ですが、私は逆に最も演歌に適した列車じゃないかなあと思います。
あまり歌には詳しくないので、どの歌に出てくるかははっきりとは言えませんが、吉幾三さんの「雪国」の中に「逢いたくて夜汽車乗る デッキの窓に とめどなく頬つたう 涙のあとを」とありますが、これがまさしく急行「津軽」じゃないでしょうか。
吉幾三さんイコール青森県の津軽地方と考えていることが前提ですが、急行「鳥海」は秋田止まりですから除外されますし、寝台特急「あけぼの」は当時は20系で、デッキのドアは折り戸になっていて、細長い窓が2枚ついているタイプでしたから、「デッキの窓に顔が映る」といえば旧型客車の「津軽」ということになるんじゃないでしょうか。
さて、青函連絡船で北海道に渡ったお客さんたちを待っているのは函館本線の列車ですが、函館本線といえば山川豊さんの曲が有名です。
ところが、この山川豊さんの「函館本線」の歌詞は「窓のむこうは石狩平野 行く手をさえぎる雪ばかり」で、列車を特定できるものはありません。
函館本線(函館―小樽―旭川)で考えると、江別から岩見沢、深川あたりまでの空知地方の豪雪地帯の話だとは思います。
強いて言うならば、この列車は電車ではなくて機関車が引く旧型客車じゃないと、やはり演歌にならないと思います。
作詞者のたきのえいじ先生は藤森美?さんの「いすみ鉄道旅めぐり」の作者でもいらっしゃいますので、今度お会いすることができたら尋ねてみたいと思います。
さてさて、私たちの世代(50歳以上)にとって北海道といえば忘れられないのが松山千春さんです。
彼の歌は北の大地をイメージするものが多いのですが、列車が出てくるものというと、「人生(たび)の空から」が浮かびます。
「深く耳を澄ませば、朝一番の汽笛 街はにわかにざわめいて」という朝一番の汽笛はやっぱり蒸気機関車の汽笛が似合います。
朝の静寂を破るのは蒸気機関車が引く列車が発車するときの汽笛。
深く耳を澄まして聞こえるのは、駅から少し離れた丘の上あたりにいるんじゃないでしょうか。
松山千春さんの出身は旧国鉄池北線の足寄(あしょろ)ですが、足寄の街から少し離れた丘の上で聞こえてきた汽笛というイメージですね。
池北線(池田―北見 廃止されたふるさと銀河線)には昭和50年ごろまで9600が走っていましたが、当時の池北線は旅客列車はすでに気動車化されていて、9600は貨物列車に活躍していました。


(SLダイヤ情報1974年春号より)
ところが、その貨物列車の時刻(1974年)を見ると、9600の引く貨物列車は足寄を10:03と15:32の1日2本だけ。
これでは朝一番の汽笛にはなりませんね。
松山千春さんは昭和30年生まれですから池北線の9600が廃止された時がちょうど二十歳。もしかしたらもう数年前の多感な時代の印象を歌詞にしたのかもしれませんが、池北線は昭和40年代の早くから旅客列車の気動車化が進んでいましたし、SLブーム以前の貨物列車の時刻は手持ちの資料にはないし知る由もありませんから「謎」ということになりますね。
いわゆる「名作」と呼ばれるものは、どんな作品にも「謎」の部分があって、最後まで答えを言わないもので、私たちに考えさせる部分を残しているのが名作たるゆえんだと思いますが、この松山千春さんの「人生(たび)の空から」も、歌詞から澄んだ北海道の朝の空気が伝わってくる名曲だと私は思います。

その池北線の同じページには石北本線の欄がありますが、この中で注目は左にある札幌からの517列車、急行「大雪5号」。
この列車は札幌から網走を結ぶ夜行列車ですが、北見までは急行列車として運転して来ましたが、北見からは普通列車として網走まで走ります。
これは、朝の通学輸送に対応するためにそうしてあったんですが、この当時はC58形蒸気機関車が引く急行列車として有名な列車でした。
俗に「大雪くずれ」などと言われていましたが、寝台やグリーン車を連ねた急行編成をC58が引くシーンは絵になりました。
私が何よりうらやましかったのは、こういう列車で学校に通うことができる地元の高校生で、もう50代後半になられていると思いますが、この夜行列車の急行編成で学校に通っていた人たちは、今どうしているのでしょうか。
当時はフォークソング全盛の時代でしたが、今頃はどこかのカラオケで演歌を歌っている年代でしょうね。
特急「オホーツク」や「北海」は、全車指定で食堂車もついていて、時刻表を見ているだけで、その風格が伝わってくるのがご理解いただけるのではないでしょうか。
とまあ、古い時刻表を引っ張り出しただけで、これだけ想像を膨らませることができるのが鉄道趣味が高尚であると言われるゆえんでありますが、こんなことをやっているとあっという間に時間が過ぎていきます。
中学生時代の私はこうして毎日時刻表を眺めながら、いろいろ想像を膨らませていると、あっという間に時間が過ぎて、勉強などする暇がなかったということもお分かりいただけますよね。(この時刻表の1974年は私は中学2年生でした。)
鉄道というのはただ単に輸送手段ではなくて、私たちの人生そのものだということが、ヒット曲の歌詞を見ても明らかだと思いますが、夜行列車が全廃し、新幹線と通勤電車と何十万円も払わなければ乗れないような超豪華列車だけになってしまったら、この国の文化は廃れてしまうんじゃないかと思います。
そういうことを鉄道会社はもっと真剣に考えなければいけないのではないでしょうか。
もっとも、大きな会社が考えないところに私たちのチャンスがあるのですが。
山田さん、こんな仮説で如何でしょうか?