茶色い電車を求めて

新小岩や佐倉、大宮、新鶴見などにゴロゴロたむろしていた蒸気機関車が消え、しばらくすると、いつの間にか総武線や常磐線で走っていた茶色い旧型国電も姿を消してしまいました。
当時小学5年生だった私は、子供ながらに近代化と言われていた世の中の変化を肌で感じるようになり、家にあったオリンパス・トリップ35という小型カメラに白黒フィルムを詰め込んで、休みになると、南武線や横浜線、青梅線、成田線などに茶色い電車を求めて沿線を彷徨うようになっていました。
今から38~9年前のことです。(当時の私)
そのころ、蒸気機関車は首都圏を追われたとはいえ、小海線のC56や会津、只見のC11など、比較的近場でまだまだ活躍していたのですが、当時の小海線や会津線は東京から夜行に乗って早朝に到着するところでしたから、小学生には遠い存在でした。

そんな時代に青梅線で撮影した写真がこれ。
春になると列車にビラを貼ってストライキをやるのが国鉄の恒例行事で、せっかく写しに行ったのに電車が汚くてがっかりしたのを憶えています。
一口に茶色い電車と言っても、73系電車と呼ばれる旧型国電は形態的にさまざまに分類され、全金車や更新車などを合わせると、小学生の自由研究のテーマとしては手に負えない学術的考察を必要とするボリュームになりますが、そんなことはお構いなしに、電車好きだった友達の兄貴(高校生)にたずねては、ごちゃごちゃになった頭の中を順序立てて整理していく練習をしていました。
子供ながらに特に気に入っていたのが920番台と呼ばれる全金属車体(他の車体は木造改造車などが多かった)。
車体表面にリベットや補強帯などがなく、ツルンとした板チョコのような車体が編成に入っていると、数両移動してでもその車両を選んで乗りました。
木でできた電車に比べると中はピカピカで、電気も蛍光灯だったので、格好良く見えたものです。

[:up:]当時貴重だった3扉車のクハ55。編成の先頭についてやってきたので慌ててパチリ。軍畑(いくさばた)駅
この旧型国電と呼ばれる電車はモーターの音が良く、フルスピードで走る時に出すかすれたようなモーター音は特にしびれる音色でした。
1990年代まで山口県の小野田線でクモハ42という車両が現役で残っていましたが、支線のため速度が遅く、かすれるようなモーター音を聞くことができなかったため、JRに頼んで大枚をはたき、1両チャーターして、宇部から下関までの山陽本線を臨時列車としてフルスピードで走らせて、その走行を音とともに前面展望映像として記録したこともあります。
また、同じころ、飯田線にもクモハ12という茶色い電車が残っていましたので、やはり1両チャーターして、伊那谷にモーター音を響かせて走る姿をビデオに記録したりしました。(この商品です。)
いすみ鉄道では、今、国鉄型ディーゼルカーのキハ52を導入しようと準備をしていますが、このキハ52はエンジンも昔のままですので、カラコロ・カラコロという昭和の音色が房総半島の山あいに響くのが今から楽しみなのです。
車齢45年のディーゼルカーは確かに整備に手はかかるかもしれません。
でも、今ならまだ間に合いますから、今やらなければならないのです。
私の40数年にわたる鉄道趣味の蓄積を活かし、せっかく社長にしていただいたいすみ鉄道で、昭和の鉄道風景を具現化するのです。
そして、それが、沿線活性化の費用対効果を考えた場合に現状でできる最大最強のビジネスプランとして、沿線住民の皆様や観光客の皆様、そして鉄道ファンの皆様に大いなる夢と、昔の汽車旅を体験していただく一番近道の再建策なのです。
皆様のご支援、ご声援をよろしくお願い申し上げます。