社長、存続が決まったんだから、もういいんだよ。

2010年8月にいすみ鉄道が存続することが決まりました。
私はホッとしましたが、ここで気を抜いてはいけないと思い
「存続が決まったところからが本当のスタートなんです。」と地域の人たちに申し上げました。
いすみ鉄道沿線には悪い前例があります。
国鉄木原線時代に何とか廃止を免れようと、沿線住民たちが用もないのに列車に乗って乗車人員を増やしました。
いわゆる「乗って残そう運動」というやつですが、その結果、木原線は廃止にならずに、第3セクターいすみ鉄道として存続することができたわけですが、「存続」した瞬間から、地域は安心してしまい、乗って残そう運動は下火になりました。そして、いすみ鉄道として開業してから乗客数は20年間右肩下がりが続いていたのです。
今回、いすみ鉄道が存続することができましたが、ここで気を抜いてはまた20年前と同じになると思ったので、(2010年8月の)存続決定のご挨拶の時に地域の皆様方へ「存続したところからスタートなんです。」と申し上げました。
そして、そのためには様々なビジネスプランを提案し、翌年度(2011年)はキハ52で昭和の鉄道をイメージ展開する戦略を立てたのですが、そんな話をしていると地元の人たちはポカ~ンとした表情。
そして言うのです。
「社長、存続したんだから、もういいんだよ。」 と。
それが、地域の中である程度のポジションにいる人たちなのですから、私としては「ダメだこりゃ」と思いました。
大多喜町はいすみ鉄道が廃止されたら、陸の孤島になってしまいます。
だから、そうなっては一大事と、町民の皆様方は存続運動に熱心になっていました。
それに比べ、隣のいすみ市は大原と岬に外房線が走っている。
大原から上総中川まで、全区間の約半分の距離を、いすみ鉄道はいすみ市内を走りますが、いすみ市の大多数の人たちにとってみれば、都会へ行く外房線があれば、山の中に向かういすみ鉄道は要らないわけで、だから存続運動もそれほど盛んではなかったのです。
ところが、いすみ市の人たちは、私が「いすみ鉄道は観光鉄道化すればいろいろ使い道がありますよ。」とお話したら、旧夷隅町も旧大原町も旧岬町も、みんな「よし、面白そうだ。」といすみ鉄道を使って活性化するプランを立てて実行に移しだしたから、存続が決まった瞬間から、「社長、次は何をやりますか?」と聞いてくるのです。
この違いは何かというと、大多喜の人たちは、いすみ鉄道を純粋に交通機関として考えているのに対して、いすみ市の人たちは、いすみ鉄道を自分たちのツールとして考えるようになったということ。
つまり、せっかくローカル線があるのだから、これを使って地域活性化のために何ができるか考えて実行していこうというのがいすみ市の人たちの姿勢なのです。
いすみ市は昭和の末期ごろから移住者が増え、新住民がたくさん誕生しました。
マイク真木さんもそうですね。
そういう都会からの人たちがたくさん住んでいる地域だから、いろいろ新しいことをやっていかなくては廃れてしまうということが感覚的にわかるのだと思いますが、大多喜にはそういう移住者が少ない。
ということは、旧人類ばかりの集落で、新しいことをやろうという発想すらない地域だということなのです。
だから、私は思うのです。
来年の圏央道の延伸開業はものすごく大きなインパクトになるし、大多喜にとっては好むと好まざるとにかかわらず、ビッグチャンスが到来し、今までの考え方が通用しなくなる日が来ると。
鉄道時間軸で考えると、東京―千葉―大網―茂原―一宮―大原 そして大多喜と大多喜は東京から一番遠いところです。
でも、圏央道ができると、大多喜は茂原よりも大網よりも東京に近くなるのです。
これが私が言うビッグチャンス。
100年に一度、1000年に一度のビッグチャンスなのです。
ちょうど世の中が少子高齢化で、日本中の田舎がこのままで行ったら生きていくことができなくなるという時代に、天から救いの手が与えられるように大多喜のすぐ近くに高速道路がやってくるのです。
それなのに、過去のことばかりにとらわれて、地域のリーダーたちが先に進む決断をできないようでは、のどから手が出るほど欲しいチャンスをものにすることができません。
ていうか、ふつう考えたら、圏央道開通の一大キャンペーンを町を挙げてはじめていても遅くないこの時期に、看板や横断幕ひとつ見当たらないわけですから、これがチャンスだという認識すら地域の人々には無いように見えるのです。
大多喜の人たちは今から頭の中を洗濯しておかないと完全に取り残されてしまうことになるのです。