「いすみ」じゃなくて「夷隅」の訳

先日、龍ヶ崎か?、それとも竜ヶ崎か? 市の名前は龍ヶ崎ですが、地元では両方使われていて、何となくおおらかで良いですねと書きました。
最近の日本人は、マスコミの論調もそうですが、何だか、とにかく白黒はっきりさせないと気が済まないところがあるように思いますが、私のように、別にどちらでも良いのではと考えるのは、おかしいでしょうか。
たとえば、私の名前は鳥塚ですが、「とりづか」なのか、それとも「とりつか」なのか、私にもわかりません。(笑)
漢字の読みですから「とりずか」ではないことだけは確かですが、濁っても、濁らなくても、どっちでもよいと思いますし、親からずっと「とりづか」と発音されてきただけで、はっきりどっちと聞いたわけでもありません。
日本語には前後の音がくっついて発音されるフランス語の「リエゾン」のような音は少ないですが、「とりづか」の方が読みやすいというか、「とり」と「つか」を続けて読むと「とりづか」になるという程度の問題でしょう。
濁音便ですかね。
日本人の90%以上の人たちの名字が明治になってから付けられたことを考えると、
私としては、呼ばれたのが自分だとわかれば、それでよいと思います。
私の友人に中嶋という人がいますが、彼は自分のことを「なかしま」と呼んでいます。「ああ、そうなんだ」とは思いますが、お酒を飲む席などでも、どうして「なかじま」じゃなくて「なかしま」なのか、中嶋と中島はどう違うのか、とかは聞いたことがありません。
長嶋さんと長島さん。
斉藤さん、斎藤さん、齋藤さん、齊藤さんはどういう違いがあるか、いろいろいわれはあるのでしょうね。
「家」としては面白いと思いますが、本人だとわかればそれでよいような気がします。
私が20代のころ、大韓航空に入社した時のことです。
正式な会社名として「だいかん」ですか、それとも「たいかん」ですか、とボスに質問したところ、韓国人のボスは「どっちでも良いですよ」と言いました。
自分の会社名の読み方を「どっちでも良い」というのも面白い話で、当時、同期の友人と「おい、どっちでも良いってどういうことだ?」と不思議がった記憶がありますが、韓国語では(日本語のかなでは完璧には表現できませんが)大韓航空は「てーはんはんごん」と「でーはんはんごん」の中間の発音。大を「てい」と「でい」の中間の音で発音しますから、あえて日本語でいうとしたら、どちらでもよいのでしょう。
韓国人もおおらかなものですね。
ちなみに韓国語では、フランス語のように前後の音がくっついてしまいますから、口語で発音するときには、「でーはんはんごん」ではなくて「ではなんごん」となります。
韓国の港町プサン(釜山)をローマ字ではPUSANともBUSANとも表記しています。どちらかというと、BUSANの方が実際の韓国語の音に近いので、最近ではBUSANと書くことが多いようですが、はっきりしないのも良いものです。
金さんはKIMで、「キム」と読みますが、李さんはLEEと書いて「イ」
ヨン様の「ぺ」は漢字では「裴」で、ローマ字ではBAEです。
BAEと書いて「ぺ」はチョット意外ですが、以前はBAEを「ベイ」と読んでいました。
崔さんは「チェ」と読みますが、ローマ字ではCHOI。
これはハングル文字を分解するとこうなるようです。
外人は崔さんを「ミスター・チョイ」と呼びますが、本人たちは、別に気にすることもなく「YES」と答えています。
日本人にも、このくらいの大らかさというか曖昧さがあっても良いと思います。
さてさて、いすみ鉄道の沿線にあるいすみ市は、平成の町村合併で、それまでの大原町、岬町、夷隅町の3町が一つになって「いすみ市」になりました。
合併後の市の名前を決めるときに、3町のうちの1つ、夷隅町の夷隅をそのまま使う訳にもいかず、漢字では読みづらいからひらがなで「いすみ」としたのだろうと、大方の想像はできますが、それよりも20年近く前の会社発足時から、「いすみ鉄道」はひらがな表記でしたから、ある意味、「いすみ鉄道」と名前を決めた人はすごいと思います。
この町村合併で夷隅町が消えてしまいましたから、「夷隅」という漢字は今では夷隅郡という郡の名前に残っているだけで、合併せずに町として残った大多喜町と御宿町に手紙を出すときには千葉県夷隅郡と頭に付きますが、それ以外には使うことも無くなりました。
もともと夷隅郡というのは、勝浦市といすみ市、大多喜町、御宿町のエリアのことを指していましたので、いすみ鉄道の支援も、御宿、勝浦の皆様に入っていただいているという経緯があります。
でも、私は、今では使われなくなってしまった「夷隅」という漢字に何となく、「いいなあ」という気持ちがあります。
何でもかんでも簡単にひらがなにしてしまう昨今の風潮に抵抗があるからかもしれません。
夷隅の語源を調べてみると、日本書紀に伊甚(いじみ)と記載があるようですから、かなり古い。
日本書紀は1300年前の奈良時代の歴史書ですから、伊甚というのは、さらにそれより古いことは確かで、そんなに大昔から、地名が付いていた場所、つまり、ある程度栄えていた場所だったわけです。
それが、江戸時代に「夷隅」という字を当てられた。
その意味は、江戸から見て東の隅にある野蛮なところということです。
古代中国の王朝が国を統一した時、自分の言うことを聞かなかった地域を指して、南を蛮、西を戎、北を狄、東を夷として、野蛮人が住むところと決めつけたのが夷という文字の由来。
日本でも「南蛮東夷(なんばんとうい)」という言葉が江戸時代に鎖国をしたころから使われ始めたようですが、夷隅は、徳川の殿様から見て東の隅にある野蛮なところ、という意味でそう名付けられたと思います。
私の父は、勝浦の出身ですから、まさしく私の体の中にも野蛮人の血が流れている
ということになるので、自分の名誉挽回の意も含めて申し上げると、徳川の殿様から見て「東の隅の野蛮人」ということは、徳川家にとっては、とても脅威がある地域であり、幕府にとっては無視できない重要な地域だったということです。
何しろ、1300年前の日本書紀にも出てくる地域ですから、けっして文化や文明が劣っているという意味での野蛮ではありません。
本当に野蛮人が住むような原始的なところだとしたら、そんなところは地図に載せる必要もなく、名前を付ける必要もないからです。
今でもそうですが、夷隅地域は、東京という大消費地の胃袋を支えるために、米や野菜、魚や肉などを、その温暖な気候と肥沃な土地を利用して生産する地域ですから、江戸時代でも、たいへん重要な場所だったのです。
そして海伝いに江戸まで運べる地形は、当時から大量輸送を可能にする他にはない利点がありました。
だから、あえて「夷」として、それを治めるために四天王の一人である武将を送り込んで、直轄地としたわけです。
つまりは、徳川にとっては放ってはおけない重要な地域だったのですね。
だから、私は夷隅という字に誇りを持っていて、いすみ鉄道に来て、どうにか夷隅という漢字表記を復活できないかと考えていました。
そこで、急行列車の運転開始を機に、その列車のヘッドマークに堂々と「夷隅」と掲示してみたのです。
いすみ鉄道で地元のいすみ市を全国区にするのが私の目的の一つですが、漢字の「夷隅」だって、地元の人がいちいち「蝦夷の夷に隅田川の隅」なんて説明しなくても、全国区にしてみせると企んでいるのです。

そうそう、列車名と言えば、昭和の国鉄の列車名ですが、なぜか特急列車にはひらがな表記が多くて、急行列車に漢字表記が多かったように思います。
「燕」じゃなくて「つばめ」ですし、「桜」なくて「さくら」。
「若潮」じゃなくて「わかしお」ですからね。
その反面、急行列車は「能登」、「東海」、「八甲田」、「桜島」、「霧島」など、漢字が多かったですから。
どなたか、その理由をご存じの方がいらしたら教えてください。
まあ、どうでもよいと言えば、どうでもよいことなんですけどね。
時として、そのどうでもよいことを、真剣に考えてみたくなることもあるのです。