車内販売と風呂屋の牛乳

先日、FACEBOOKで「新幹線のこだまに乗ったら車内販売がなくて、自動販売機もやめちゃって不便だ。」と書きましたところ、いろいろな皆様方からお返事と言いますか、ご意見をいただきました。
皆様もご存じのとおり、JRは儲かることだけやるという体質になっています。
一応形の上では「民間会社」のようですから、儲からないことをやらないということをとやかく言うのは今日のところはやめておきますが、FACEBOOKにいただきましたご意見を見ると、皆さん、特急列車の中での車内販売を楽しみにしているのがよくわかります。
私の仲良しの女性は、特急に乗ったら必ず車内販売を呼び止めて買い物をします。そして、その時もらうレシートを集めているんですが、なぜかというとそのレシートには乗っている列車名(列車番号)が印刷されているんですね。
彼女は特殊な例かもしれませんが、今の若い人たちは、このように車内販売をとても楽しみに、そして使いこなしているようで、私はそういう意見をお聞きして、実は、そのことに少々驚きを持った次第なのです。
なぜならば、私が育った環境では車内販売はぜいたく品で、おいそれと呼び止めて買い物をするなんてことは、今でも抵抗があるからなんです。
私が子供のころ、昭和40年代は、日本が高度経済成長に入った時代ですから、社会の中に格差というものがまだたくさん残っていました。
今ももちろん格差があるのは認めますが、昔の格差というのは外見で判断できるほどはっきりしていて、それが同じ学校の同じ教室に通う友達の中にもありましたし、都会と田舎というような、地域による格差というのも、着ている洋服を見ただけではっきりとわかるようなものでした。
今ではそんなことも感じなくなりましたが、田舎の人から見れば、都会の人は皆きれいな洋服を着てあか抜けて見えたものですし、都会の人から見ると、田舎の人はなんだか薄汚く見えたのです。
こんなことを言うと「差別」と言い出す若い人もいるかもしれませんが、これが実際の世の中だったのですから仕方ありません。解りやすく例を挙げるとすれば、都会ではピカピカで空調が付いた電車が走っているのに、田舎に行くとオンボロの汽車が煙を吐いて走っていて、トンネルに入ると急いで窓を閉めていた時代でしたので、それが都会と田舎の格差の象徴だったわけです。
さて、そんな時代に、私の家も決して裕福ではありませんでしたから、子供ながらにその格差を身に染みていたんです。
この間ブログに書いた同級生のM君のように裕福な家はどちらかというと特別な存在でしたが、長屋のようなところに住んで、銭湯に通っていた生活でしたから、「裕福でない」というよりも「貧乏だった」と言った方が正しいのですが、では、そういう環境は自分だけだったかというとそうではなくて、都内の商店街に暮らしていると、クラスのうち半分ぐらいの生徒は自宅に風呂がなくて銭湯に通うのが当たり前だったんですね。
だから、皆「そういうもんなんだ」と思っていましたから、特に貧乏で苦しかったという記憶はないのですが、一つだけ思い出すのは、銭湯の脱衣場にある牛乳を飲ませてもらえなかったことです。
銭湯はほぼ毎日のことですから、自分の親父と行ったり、友達と行ったりするのですが、母親からもらうのはお湯銭(お風呂の代金)だけですから、湯上りの牛乳を飲むことは不可能です。
自分の父親と行くときなどはもっとはっきりしていて、親父はお湯から出たら早く帰ってビールを飲みたいわけですから、牛乳などには目もくれません。
一度か二度、「コーヒー牛乳を飲みたい。」と言った記憶がありますが、「家まで我慢しろ!」と言われておしまい。
それ以来、私は銭湯の脱衣場で売っている牛乳とは無縁な人間になりました。
つまり、銭湯の脱衣場の冷蔵庫に入っている牛乳は飲み物ではなくて「横目で見るもの」という存在になったわけです。
子供のころの楽しみに、毎年夏休みに勝浦のおばあちゃんの家に連れて行ってもらいました。
両国から出るキハ28・26の急行列車や、時には臨時の客車列車に乗って行ったのですが、列車に冷房などない時代ですから、車内は暑くてムシムシしています。そんな時、ふと反対側の座席を見ると、お客さんが冷凍ミカンを食べていたり、ジュースを飲んでいたりするのが目に入ります。
両国駅のホームには売店があって、お弁当やジュース、お菓子などが積まれて売っていて、発車の前にお客さんが群がって買っています。
でも、うちの親父はそういうものは眼中に無いようで、一度も買ってもらったことがないんです。
やがて列車が発車すると、私は車窓の風景や他の電車に夢中になりますから、飲みたい食いたいを忘れてしまうのですが、時々回ってくる車内販売のワゴンを見ると子供ですから「いいなあ」という目で見てしまいます。
でも、親の前では「買ってほしい」と言い出すことができなかったんですね。
しばらくすると列車は土気の山を越えて大網に停車します。
当時の大網駅はスイッチバックになっていて、列車の方向が変わりますから、5分ぐらい停車します。
急行「そと房」の旅で唯一許されたのが大網駅の停車中にホームに売りに来るアイスクリームで、青木屋とカップに書かれた、確か20円だったと思いますが、そのアイスクリームを買ってもらうことはお約束になっていましたから、家を出てから大網までは飲まず食わずの「我慢」だったわけです。
子供のころの記憶というのは恐ろしいもので、今思うとある種のトラウマになっているものがあります。
私は、いつもいつも「お預け」だった車内販売で何かを買うことや、食堂車へ行ってご飯を食べることが、自分にとって手が届かないものだということを自分の中から払拭したくて、高校生の時に上野の日本食堂という会社でアルバイトをして、特急列車の中で車内販売や食堂車のボーイを経験したんですが、やっぱり今でも、車内販売のお姉さんを呼び止めて物を買うというのは心に引っかかるといいますか、とても贅沢な行為で、無駄遣いのような錯覚にとらわれるのです。
これは、駅弁も同じで、当時の貧乏人には、食堂車はおろか、駅弁だって高根の花でしたから、お袋が持たせてくれたおにぎりを新聞紙から取り出して食べるのが汽車の中での食事でした。
だから、今でも、駅弁を買うという行為は私にとってとても勇気が必要なんです。
車内販売も駅弁も、「買うこと」よりも「売ること」の方が、私にとっては精神的にはるかに楽なんですね。
さて、昨今、私より若い世代の皆様方を見ていると、「駅弁が楽しみ」とか「車内販売が楽しみ」という方をたいへん多くお見受けします。
旅行じゃなくても、快速電車のグリーン車には車内販売のお姉さんが乗っていて、会社の帰りに缶ビールを飲んでいるお父さん方もお見受けしますが、私の後の時代に育った皆さんは、世の中が裕福になった時代ですから、たぶん私のような車内販売や駅弁に対するトラウマというものがないんでしょうね。
だから、素直に車内販売や駅弁を「買うところ」から楽しんでいらっしゃる。
これは、私にはできないことですから、私は皆様方を見ていて本当にうらやましいといいますか、ある種尊敬の眼差しなんです。
銭湯にはとうの昔に行かなくなりましたが、外で何かを飲むんだったら家まで我慢しようとか、そういう考えが身に染みついているようです。
そして、家で飲むとしたらボトルに口を付けて飲んだりしませんから、私は飲み物はグラスに注いで飲みたいと思いますし、食べ物は陶器の器で食べたいと考えてしまいます。
缶ビールを直接缶に口を付けて飲むことは私にはできませんから、そういう私の発想の延長線上に具現化したのが、「イタリアンランチクルーズ」であり、「お刺身列車」というものなのです。
(今、いすみ鉄道のWEBショップで、既発売分の食堂車の追加座席販売を行っています。残席少々ですので、ご希望のお客様はお早めにお申し込みください。追加設定の5月24日、25日分の発売は、明日17日の午後8時からとなります。)
さて、いよいよ明日の晩に迫ってまいりましたいすみ鉄道の夜行列車。
発売から1~2時間で完売になるほどの人気をいただいておりますが、昭和の時代の座席の夜行急行列車を再現した企画です。
車内販売や駅弁が贅沢品だった時代には、もちろん寝台車だって超贅沢品ですから、夜行列車といえば座席と相場が決まっていました。
そんな私と同じ時代を過ごしてこられたおじさん世代の方々や、そういう時代にあこがれを持つ奇特な若者たちを乗せて、明日17日の晩から18日の朝にかけて一晩中キハが走ります。
応援団の皆様方が車内販売や夜泣きそばの販売を企画してくれていますし、今回は特別にNゲージの模型の掘り出し物市も深夜に開催する予定です。
私にとっての車内販売や銭湯の牛乳のように、昭和の時代の思い出はご参加いただく皆様にそれぞれおありだと思います。
わずか26kmの路線長のローカル線が夜行列車をやるなどというのは「バカな企画」かもしれませんが、昭和の汽車旅に思いを寄せる、数十年前の思い出に浸るというのは、私は「文化」だと考えていますので、そういう文化がご理解いただける皆様方に、いすみ鉄道をたっぷりとお楽しみいただきたいと考えております。
ご予約いただきました皆様、大原駅でお待ちいたしております。