そろそろラストスパートかけましょう!

小学校6年生の時、1972年7月に外房線の電化が完成し、同時に東京地下駅(今の横須賀線、総武快速線ホーム)が開業しました。

そして、それまで走っていた急行「そと房」が165系電車化されて、房総半島をぐるっと一回りする循環急行「みさき」「なぎさ」が走り始めました。

北陸新幹線が敦賀まで延伸開業し、それまで金沢から発着していた「サンダーバード」「しらさぎ」といった特急列車がなくなって、新幹線になりましたが、そのニュースを見ていて、1972年の外房線電化を思い出しました。

当時の私は千駄ヶ谷の英語塾に通っていて、塾というのは名目だけで、実際にはカバンの中に小型のカメラを忍ばせて、帰り道にあちらこちらで鉄道の写真をパチパチ撮っていましたが、7月になったらもうこの列車は見られないとわかっていましたので、名残を惜しむべくシャッターを切りました。

「サンダーバード」と「はくたか」が明日から新幹線になるという時に、お友達の皆様方が別れを惜しんで大フィーバーしていましたが、私は小学校6年生の時から、もうなくなるとわかっているんだから、ある程度余裕をもって、フィーバーになる前にこうして写真を写していたのです。

なぜかというと当時はSLブームで、全国各地でダイヤ改正の度に廃止されるSLのさよなら列車が大賑わいの大混乱でしたから、私のような小学生がその中に入れるはずもなく、こうして、控えめに、しばらく前に写真を撮っていたのです。

こちらは結解喜幸先生が撮影されたほぼ同じころ、廃止直前のディーゼル急行「そと房」。
私が小学生だったということは、結解先生は高校生か大学生だったと思いますが、さすが、将来プロになる方は違いますね。
前職時代にカレーを作るときにジャケット写真として先生からご提供いただいたものですが、同じころに同じ列車を撮影されていたと思うと、何かのご縁を感じます。

勝浦のおばあちゃんちで夏休みを過ごした私は、小学校4年生にもなると上総興津駅から一人で列車に乗って東京の家まで帰ってきました。
当時の列車は混んでいて、小学校4年生の時は混んだ列車に一人で乗せるのは心配だからと、上総興津始発の列車に乗りました。
たぶん臨時の快速列車だったと思いますが、上総興津駅の山側に側線があって、そこで機関車が引く客車列車が折り返しをしていました。
お昼過ぎだったと思いますが、その山側の側線から出る客車列車に乗って帰ってきましたが、臨時の列車で始発ということもあって、空いていた記憶があります。
後で調べてみると、当時すでにSLは廃止されていましたので、機関車はたぶんDD51だったと思いますが、大網のスイッチバックで機回しをしたのか、土気の坂をどうやって越えたのか、終着駅は両国だったのか新宿だったのか、それとも千葉止まりだったのか全く記憶にありませんが、初めての長距離一人旅が旧型客車だったことが、その後ずっと、今でも旧型客車が好きなきっかけになったと思っています。

翌年、1971年は小学校5年生。
もうふつうにひとりで電車に乗れるようになっていましたので、安房鴨川からくる急行「そと房」に乗りました。
土休日は座れないどころか、列車の中で身動きできないほど当時の房総は混んでいましたが、平日の早い時間だと比較的座れましたので、私はお昼ごろの急行「そと房」に乗りました。

上総興津の駅は跨線橋はまだなくて、改札口を抜けたホームに小さな階段があって、その階段を降りて線路を渡って反対側へ行くスタイルでした。
ホームにフタのようなものが付いていて、駅員さんがそのふたを開けると階段が現れるのですが、列車はその階段のある踏切をふさいで停車しますので、ギリギリに行くと線路を渡ることができない仕組みでした。

反対側の上りホームで列車を待っていると、構内の外れにある踏切がなり始めます。
やがて、汽笛を鳴らしながらカーブを曲がって急行列車が姿を現します。
「そと房」のヘッドマークを付けたキハ28を先頭に、8~9両の長編成の列車がカーブを曲がってこちらに向かってくるシーンはワクワクしました。

急行列車はタブレットの受け渡しがあるので、運転士さんの他に助士が乗っていて、窓から身を乗り出してタブレットを投げ入れます。
このシーンが好きでしたね。

ぐるぐる巻きのタブレット受器に投げ入れられたタブレットは、2~3回回転して止まります。
それを駅員さんが拾い上げて、反対側の列車に持って行くんですよね。

交換列車があるときはこのぐるぐる巻きを使っていて、交換列車がないときはホームの先頭で駅員さんが待っている。
こんな感じだったと思います。

何しろ、おばあちゃんちには男の子がいなくて、本家は年上のかしましい3人娘でしたから、「アキラ、おちんちんに毛が生えたか? 見せてみろ!」とか言って顔を見るたびにからかわれていましたので、私はいつも駅へ行って一人で列車を見ていましたから、駅員さんが赤い箱からタブレットを取り出すところなどが目に焼き付いているのです。

その時の急行列車に使われていたのがキハ28ですから、私は房総半島には絶対にキハ28が居なければならないと思って、最後の活躍をするキハ28を譲り受けたのでありますが、その車両が、今、延命できるかどうかの境目なのです。

もうすでに私のパワーが及ばないところへ行ってしまいましたが、地元でキハを愛する私よりも若い人たちが、保存会を作ってくれて、この車両を後世に残そうと頑張ってくれているのは本当にありがたいことだと思っています。

だって、房総半島にキハ28の急行列車が走っていたことを知らない世代の皆様方が、今、大切に思ってくれているのですから、感謝しかありません。

残ってさえいれば、あとになって「やっぱり使おう」となった時に、こんなことだってできるかもしれないのですから。
とりあえず、残しておけば、あとで色々使えるのです。

と、私は思います。

そういえば、北陸線にだって走っていたのですよね。

今、クラウドファンディングは難しい時期になっています。
1月1日に能登半島地震が発生し、有志の皆様方はそちらへ浄財を投入されていますから、タイミング的には大変難しく、苦心しています。
でも、約80%のところまで来ましたので、あともう少しです。

この難しいタイミングで、よくここまで来たなあと思いますが、それだけ皆様方に愛された車両だということでしょう。

鉄道会社がもう要らないと言った車両でも、残っていれば、残してさえおけば、あとでいろいろと使えるのですから。

この方だって、きっと同じ気持ちだと思います。

私は今、新潟ですが、日本に一か所ぐらい、こんなシーンが見られるところがあっても良いのではないかと思います。

それが自分の思い出の房総半島ならなおさらです。

そして、この10年ちょっとの間、この車両が房総半島を走って、私のように思い出を作った皆さんがたくさんいらっしゃると思います。
そういう皆さんが、力を合わせて、未来を作って行ってほしいと私は思います。

そろそろラストスパーのキハ28保存会のクラウドファンディングをどうぞよろしくお願いいたします。

https://readyfor.jp/projects/kiha285230?fbclid=IwAR1OWaIy_ewK99HyB3yrdGKcSXcuPXKNX34PZLJkgKv7cPs9922dndJD9Qo

▲キハ28-2346の修繕。夢の「鉄道パーク」建設への第一歩を共に。