赤銅色の夏

「社長、寿司でも食いに行きませんか?」

大多喜にいたころの話。
駅前の浅野さんが夕方になると声をかけてくれました。
浅野さんは駅前に住んでいて、ネット環境をお願いしていたのでよく駅に顔を出してくれていて、私がやりたいことの相談相手になってくれていました。

寿司屋のカウンターで浅野さんが切り出します。

「私たちの時代はココは本当に東京から遠いところでね。」

浅野さんが東京で学生生活を送っていたころの話だ。
浅野さんは私より10歳以上年上だから、東京での学生時代ということは多分前回の東京オリンピックの頃の話かもしれない。

「お盆にね、友達と別れて実家に帰るんですよ。友達は埼玉か栃木なんだけど、向こうは電車で帰る。私の方は両国駅から汽車に乗るわけですよ。社長もご存じのSLね。」

昭和47年に東京地下駅ができるまでは千葉方面の汽車は両国駅から出ていて、急行列車の一部だけは新宿から乗れた。そんな時代です。

「両国からの汽車の車内は白熱灯でしょ。ぼんやりと薄暗くて先頭には煙を吐いている真っ黒い機関車。上野駅で別れた友達の方は電車だし車内は蛍光灯だから、なんだかずいぶん格が違ってましたよ。」

「そうでしたねえ。」

「そしてね、乗ってる人が違うんですよ。白熱灯の薄暗い車内だったからなおさらそう見えたのかもしれないけど、男の人は皆日焼けしていてね。なんていうのかな、赤銅(しゃくどう)色の労働者みたいな人ばかりだったんですよ。」

私も記憶していますが、昭和40年代ぐらいまでの東京の電車には完全に格というものがありまして、電車だけでなく地域そのものに格差がありました。
その格差というのは基本的には西高東低。いわゆる山の手と下町というやつです。

だから電車で言うと常磐線、京成線、総武線は格下に当たるわけで、例えば秋葉原の駅で山手線から降りて総武線のホームに上がると、そこは雰囲気が全く違っていました。
何が違っていたかというと、行きかう人々が違うわけで、つまり田舎臭いのが子供心にもよくわかる世界だったのです。

私は錦糸町に親せきが居ましたし、父が江戸川区に勤めていましたから錦糸町、亀戸、新小岩辺りは小学生のころからしょっちゅう一人でも電車に乗って来ていましたが、来るたびに世界の違いというのを感じました。

例えば総武線や常磐線の電車に乗ると、草履を脱いで椅子に正座しているお婆さんが居たり、お母さんが赤ちゃんにおっぱいをあげていたり、男の人たちは労働者風で浅野さんが言う所の赤銅色をしていました。山手線や東横線の電車にはそういう人はあまり見かけませんでした。

その総武線の電車は千葉までしか行きませんから、千葉から先に行く人たちはたいていは両国駅から汽車に乗るのですが、その汽車というのが浅野さんが言う白熱灯の木造客車で、とにかくボロかったのです。

機関車が引く旧型客車は最近では人気ですから興味がある人も多いと思いますが、旧型客車を一言で言うのは無理があって、急行列車など長距離用に使われているものと、房総方面へ行くものとは違っていました。
小学生として目についたのは1両の窓の数。房総方面へ行く客車は横から見ると窓の数が1つ多いんです。
後になって分かったのですが、1両あたりの定員が8名多い。
どういうことかというと、同じ20mの車体で座席が1列多い(2ボックス多い)ということは、それだけ座席間隔が狭いということですから、今でいえばLCCの飛行機みたいなもので、窮屈だということです。
LCCならその分運賃が安いでしょうけど、国鉄は全国均一運賃でしたから、つまりはそれが格差だったのです。

「俺はどこへ帰るんだろうか。そんなことを思いましたよ。とにかく千葉という所はそんなところでしたねえ。」

思い出話をしていたその浅野さんの表情が急に明るくなりました。

「ところで社長、この間驚いたんですよ。」

「どうしました。」

「いえね、東京の友達のところで飲んでたんですよ。阿佐ヶ谷だったかな、小さな小料理屋さんのようなお店だったんですけどね。私が大多喜って言ったら、カウンターにいた人が『知ってるよ。』って言うんです。どうして知ってるのか聞いたら、『ムーミン列車だろう。良い所だよね。』ってそう言うんですよ。今まではね、東京の飲み屋で飲んでいても、大多喜って言っても誰も知りませんでしたよ。でも、その時にお店にいた他のお客さんにも聞いたら、5~6人が『知ってるよ。』って言ってくれたんですよ。」

実にうれしそうな表情でした。

「いやぁ、社長のおかげですよ。自分の故郷を誇りに思えるようになりましたよ。」

「いえいえ、この地域にはそれだけ魅力があるということですよ。鉄道があれば、そのことが伝えやすいんです。」

私はそう答えました。

差別するわけではありませんが、千葉という所は昭和の時代はそういう所でした。
皆、ある意味自分の故郷が恥ずかしかったんです。

私の父は東京生まれで戦争が激しくなって母親の実家がある勝浦へ疎開して、そのまま高校まで千葉で育った人間でしたが、父の口からはふるさとを誇りに思うような言葉を聞いた記憶がありません。
「いやだったんだろうな、田舎が。」
そう思います。

でも、これはきっと日本全国同じかもしれませんね。

田舎の人は田舎を恥ずかしいと思っている。

「こんなところダメだよ。」

そういう地域では皆さんそう言われますが、まずそこをどうやって抜け出すか。
地方創生って、きっかけ次第でどうにでもなると私は今でもそう考えています。

そこさえクリアできれば、いくらでも浮上できるし、そこで引っ掛かれば沈みます。
地元のリーダーと言われる人たちが、そこを認識しているかどうか、具体的施策を持っているかどうか。

まぁ、そのあたりなんでしょうね。

田舎の町が廃れているのは、長年そこに住んできた人たちがそうしてしまったのです。だから、やり方を変えるためには人を変えなければなりません。

じゃないと時間とお金の無駄使いで終わるのです。

浅野さん、お元気かな。
コロナが明けたら、たまには一杯やりたいですね。


▲昭和47年8月 上総興津

わずか2~3年前まで真っ黒い煙を吐いた汽車が走っていた路線に特急電車がやってきた年。ホームには列車を待つ鈴なりの海水浴客。
今思えばこのころがピークでしたね。
ただただやって来る海水浴客をさばくだけの無策な観光政策。わずか数年後には鉄道の利用客が減りはじめ、10年後には海水浴客そのものが大幅に減りました。
今では真夏でも特急はガラガラです。

さて、皆様方はどうするのでしょうかね。

私は新潟で頑張ってみます。