My 信越本線ストーリー 2

台風19号で各地で大きな被害が出ています。

鉄道もあちらこちらで大きな被害が出ていて、いまだに被害の全容がつかめない状況のようです。
そんな中でもえちごトキめき鉄道は、おかげさまで被害を最小限に食い止めることができました。
すでに復旧作業も終わり、昨日から徐行運転ではありますが、運転を再開することができました。
しかしながら妙高高原で接続するお隣のしなの鉄道さんは、大きな被害が出てしまったようで、まだ運転再開ができる状況ではないようです。

北陸新幹線の水没も大変ショッキングでしたが、復旧までに1~2週間かかるとニュースで言っています。
鉄道会社はもちろんですが、全国各地で被災された皆様方には心よりお見舞いを申し上げるとともに、1日も早い復旧復興を願ってやみません。

ということで、ちょっとだけ気分を変えて、My信越本線ストーリーのお話です。

これは妙高市役所が今から10年ちょっと前に広く募集した信越本線の思い出を綴った文集から抜粋して皆様方にお知らせする企画です。

今夜は第2弾ということで、懐かしの信越本線のお話をお読みください。

年齢は当時のもの。ほぼ原文のまま記載しています。

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父なる信越本線   長野市 山崎 治雄(70代)

「治雄、明日汽車に乗って海を見に行くか。」

夕飯後の番茶を飲みながら父が言った。
母は弟と妹を寝かしつけているので、私は父と二人だけだった。
転校してきたばかりで、毎日学校からしょんぼり一人で帰る私を父は元気づけてくれようとしたのだろう。
63年前の秋の夜のことである。

肌寒い秋晴れの朝、私たちは牟礼駅から直江津行の汽車に乗った。
汽車に乗れるなんて夢のようなことだった。
日曜日のせいか空いている座席が多く、私はあちこち席を移動しながら外の景色を見ていた。
脇野田(現:上越妙高)という駅を過ぎると田圃がどこまでも続き、山が見えないのが不思議だった。

直江津で降り五智の海岸を目指して歩いた。
松林の間に青い海が広がっていた。

「海って広いんだね。」
私はなんだかうれしくなって大きな声で父に言った。

「学校で友達できたか。」
今まで黙って海を見つめていた父がぽつりと言った。

「明日、弥一君に話しかけてみようかな。」
と私は思った。

あれから17年が過ぎた。
私は小林一茶の生地、柏原の中学の教師となった。
毎日長野から柏原(今の黒姫)まで汽車で通った。
雨が降ろうが風が吹こうが汽車は毎朝6時きっかりに長野駅を出る。
乗り遅れれば学校は遅刻だ。
だから私は帰宅すると黙って夕食を食べ、8時には床に就いた。
そして5時起床。
5時半、自転車で駅へ向かう。

5年間で1度だけ乗り遅れそうになったことがある。
ガード下まで来たときあと5分しかない。
自転車を路地に置き、線路に出て一目散に走った。
別の汽車が来はしないかと怖かった。
デッキに立った時汗びっしょりだった。

私の生活を律し、自ら立ち向かう姿勢を作ってくれた信越線。
それは黙って海を見つめていた私の父でもある。

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学校の先生になって5年間柏原(黒姫)に信越線で通っていた山崎治雄さん。
御寄稿から10年が経過していますので、今は80代になられていらっしゃると思います。

昔の父親は皆寡黙でしたね。
でも、しっかりと子供心をつかんでくれていたのでしょう。

そんなお父さんと信越本線。

今はしなの鉄道とトキめき鉄道ですが、皆様方の心の中ではつながっているんですね。

しなの鉄道さんの1日も早い復旧を願っております。