らくちんライナー その2

昨日に続いて本日も通勤電車の話。

 

百円玉を数個お支払いいただければ座って帰れる「らくちんライナー」。

 

昨今、首都圏では各社がいろいろと趣向を凝らしていますが、いつのころから始まったのかというと、国鉄が赤字を少しでも解消しようと、上野に到着した特急列車が大宮の車庫に帰る時に、空で返すのはもったいないから大宮までお客様を乗せましょう。ということで、昭和50年代ごろ、確か私が高校生ぐらいの時だったと思いますが、座って帰れるホームライナーと、マスコミでも取り上げられたことで広く認知されたと思います。

でも、実は、国鉄ではそれよりももっと早く、昭和40年代前半から、新宿駅に到着した房総方面からのディーゼル急行を、千葉の車庫まで回送で返すのはもったいないからと、お金を徴収して帰宅する通勤客を運んでいたことがありまして、それが国鉄のホームライナーの元祖ではないかと、なんとなく、うっすらと記憶に残っているのであります。

うっすらと、というのは、昭和40年代前半は私は電車好きの小学生だったからですが、詳細は興味の有る皆様がお調べいただくとして、そういうことを考えると、国鉄時代の千葉はかなり進んでいたと私は思うのであります。

 

では、なぜ国鉄時代の千葉は進んでいたかというと、それは並行して走る京成電車と競合していたからで、その京成電車というのは、成田山詣での専用特急車両である「開運号」を、夕方の時間帯には千葉線に入れて、上野から京成千葉方面への通勤ライナーとして走らせていたのであります。これは実に昭和30年代の話で、詳しく調べていませんから正しいかどうかはわかりませんが、京成電車を愛する私としては、やはり贔屓目に見て、京成電車が通勤ライナーのパイオニアであると考えているのです。

 

昭和30年代の話ですから、うっすらもなにも、私の記憶にはないのですが、30数年前の鉄道ピクトリアルの京成特集にそんなことが書かれていたのを読んだからで、実は、皆さんご存知の通り、電車の中にテレビを取り付けたのも京阪ではなくて京成電車が日本で最初でありますから、ということは、京成電車のお客様は、昭和30年代から通勤ライナーの中で、ビールを飲みながら、ナイター中継を見ていたわけで、これこそは、通勤ライナーの元祖だと私は考えるのであります。

 

つまり、我が愛しの京成電車は、それだけ凄いのでありまして、なぜなら、皆さん、ちょっと考えていただければお分りになると思いますが、当時の千葉方面への通勤列車というのは、総武緩行線のロクサン崩れのボロ電と、両国駅の低いホームから出る蒸気機関車がけん引するこれまた旧木造客車で鋼体化改造の61系客車を連ねた列車でありますから、真っ黒い煙を吐きながらシュッシュッポッポと走る天下の国鉄の向こうを張って、津田沼ー幕張間で、片やビールを飲みながらナイター中継を見ている京成電車の通勤ライナーとが併走していたことを考えると私としては痛快なのでありますが、そういう経緯があって、国鉄の千葉鉄道管理局も「何とかしなければ」と考えて新宿帰りの回送列車を「通勤ライナー」としたのだとしたら、昨今花盛りの通勤ライナーというのは、実は、千葉が発祥の地であると言えるのではないかと考えるのであります。

 

どうだ、千葉ってすごいだろう。

 

これが千葉の底力だと私は誇りに思うのであります。

 

京成電車のお話は、このブログをひも解いてみると、今から4年半前の 2013年4月2日 に私がなぜ京成電車を好きなのかを書いておりますので、ぜひご一読いただければと思います。

 

山の中腹のトンネルから飛び出して、山手線と東北線を跨いで、急降下で日暮里駅の地表ホームに滑り込んだかと思うと、またすぐに急上昇して常磐線を跨いで高架線路に入るところなど、東京の少年にとっては子供心にまるで模型のようで、色とりどりの電車がかっこよく見えたのであります。