昭和の残照 その10 恩師の訃報

高校時代の恩師の訃報を受け取りました。

 

高校2年3年と2年間私の担任だった先生です。

 

年は10歳ほど上で、当時、まだ学校出たてのお兄さん先生でした。

 

ビートルズが大好きで、ギターを学校に持ってきていて、ヘアスタイルはアイビーカットで、着ている服もアイビーかプレッピー。

ブレザーにコットンパンツ、ベルトはコードバンで、靴はもちろんリーガルのペニーローファー。

そんな素敵な先生から、生徒たちはいろいろな影響を受けました。

 

私は高校に入った時に、かなりぐれていて、と言ってもヤンキーとか暴走族とかではなく、どちらかというと知能犯、確信犯的ぐれ方で、1年生の時の担任の先生を散々困らせました。

学校というのは学年末に翌年度のクラス編成会議があって、私はそれを人身売買と呼んでいましたが、その1年の担任だった先生は、「鳥塚とTの担任はやりたくない。」と指導を放棄しました。Tというのは私と同じクラスのやはり知能犯的生徒で、二人は仲良しでした。知能犯的というのは、勉強はきちんとやるのですが、先生の言うことは気がず、学校の規則は守らないわけですから、担任としては実に扱い辛い生徒なわけで、それが原因かどうかはわかりませんが、1年の学年末のある時、担任だった先生は夜間に自宅で心臓発作を起こして帰らぬ人となってしまいました。

だから、その亡くなられた先生の遺言通りに、私とTは別々のクラスとなり、そんな私を引き受けてくれたのがお兄さん先生だったわけです。

結局、人身売買で引き取り手の無い私は、高校2年、3年と先生のお世話になりました。

3年ほど前に同窓会でお会いしたときは、お元気そうで、「おお、兄ちゃん。」と私の当時のあだ名を覚えてくれていて、「元気か。太ったなあ。気を付けろよ。」といってくれましたが、2年間もご面倒、ご迷惑をおかけした割には、何も先生孝行できなかったのが悔やまれます。

 

このブログの「昭和の残照」でご紹介している白黒写真は、そのほとんどが先生のクラスにいたころに撮影したもので、土曜日に早めに学校を抜け出し、羽田からスカイメイトで飛んで行って、その晩はユースホステルに宿泊し、日曜日の夜行に乗って、月曜日の朝東京に着いて、そのまま学校へ行って教室で眠っているような生徒だったのですから、私が先生だった呆れて開いた口がふさがらないと思いますが、「京都の市電が無くなるから、今しかないんだ。」という私を、先生は何もおっしゃらずに笑って見守ってくれていました。

 

そんな先生の訃報を聞いて、「早すぎる。」と思いつつ、「自分もあと10年か。」と思うような年齢になったことを実感しています。

 

 

 

 

 

 

毎日乗っていた電車、ふるさとの駅。

買ったばかりの200ミリの望遠レンズで撮影した前面展望。

つまり、教科書は持たずに、カメラを持って学校へ通っていたということです。

 

それだけおバカな生徒でした。

 

その私の古い友人たちが、ビートルズ葬で先生を送ってくれるということです。

ありがたい友人たちですね。

私は参列できませんが、お花を送らせていただきました。

よろしく頼みます。

 

先生、ありがとうございました。

 

ご冥福をお祈りいたします。