自分流「駅からハイキング」

 昨日は会議で、その後夜遅くまで飲み会に参加し都内のホテルに泊まりました。
そして今日は久しぶりに1日休みを取っていたので、朝になって家に帰るだけじゃ面白くないと思いまして、内田百閒先生風に言えば、「用はないけれど電車に乗ってみよう」ということで、「そうだ。誰かが東上線90周年記念日だ。」と言っていたのを思い出して、池袋から東武電車の人となりました。

池袋から乗車した急行、小川町行
TJライナーに使用される車両でした。
最近は改札口を入る前に切符という物を買わなくなりました。
パスモとか、スイカとかでピッ!
だからどこへ行くあてもなく、この電車に乗りました。

坂戸に到着すると隣のホームにこの電車が見えましたので思わず下車。
坂戸の駅は昔とほとんど変わりませんね。

越生(おごせ)線の終点、越生駅。
30年ぶりぐらいに来ました。
当時は7800型が集まっていましたが、今では8000が集まっています。
考えてみれば当時と同じ現象ですね。

そうだ。たまには温泉に立ち寄り湯でもしようと、越生の駅前にある観光案内所で、
「黒山温泉は日帰り入浴やってますか?」と訪ねると、
係りの女性が申し訳なさそうに、
「2軒とも閉館いたしました。」
ああ、そうなんだ。
じゃあどうしようかと考える間もなく、私の足は勝手に歩きだしていました。
「次の明覚駅まで、一駅歩きましょう。」と思ったのです。


で、道行く車をかわしながら、テクテク歩いてやってきたのがこの踏切。
実は私、43年前にここにきているんです。
1972年は鉄道100年の年。
八高線で蒸気機関車が走るとあって、当時小学校6年生だった私は撮影に行こうと考えました。
八高線というと金子坂ですが、あそこは有名撮影地ですからお兄さんやおじさんたちがすごいカメラを持って集まっている。
私はオリンパスのトリップ35という小型のカメラでしたので、そんなところへ入り込むには気が引けます。
そこで、図書室で地形図を借りてどこが良いか調べてみたんです。
そうしたら越生と明覚の間に小さなサミットがある。
越生だったら東上線で行かれるから、小遣いもそれほどかからない。
と思って、越生まで東武でやってきて、越生駅からテクテク歩いて、この場所に来たんです。
1972年9月から10月にかけて、八高線に何度かD51が走ったのですが、当時の小学生の小遣いでは1日しか来れないし、20枚撮りのカラーフィルムをカメラに入れると、軍資金は残りわずかですから、とにかくテクテク歩くしか方法がない。
当時のダイヤは八王子からの列車と高崎からの列車が高麗川ですれ違うから、越生、明覚あたりなら1時間ぐらいで反対側の列車がやってくるから効率が良いわけです。

たどり着いてみると、私が地形図で調べたとおり、千分の20の上り勾配の箇所。
そろそろ刈り入れ時期を迎えた稲穂の中を走るシーンを撮ろうと、田んぼの中で待ちました。

その時の写真がこれです。
機関車はD51498。
今も走っているカマです。
ところが、千分の20の上り勾配を前に、機関車が全然煙を吐いてくれませんでした。

これが43年ぶりに訪れた本日の1枚。
記憶を頼りに行きましたが、ほぼ同じところです。
それから明覚駅の方角へ向かってまたテクテク歩いて、サミットを越えてときがわ町に入ると、この場所に出ました。



ここは明覚駅から越生駅に向かって上り列車が千分の20の勾配に差し掛かるところ。
43年前は入れた場所が、今は入れなくなっていましたが、この上り勾配の直線の右側にあった空き地から登ってくるD51を撮影しました。

それがこの1枚。
こちらの機関車はD511002ですが、こちらも見事に煙はスカでした。
明覚を出て、力行したまま上り勾配に差し掛かるから、煙を期待してたんだけどなあ。
当時は黒煙防止が徹底していましたから、サービスで煙を吐くなんてことがなかったのかもしれません。
でも、サービスで汽笛を鳴らしてくれた瞬間です。
小学校6年にしては良く撮れてるでしょう。

この列車はD51の1本前の普通列車ですが、今の若い皆さんから見たら、SLよりこちらの方が魅力的かもしれませんね。
2両目に10系が入っているのがわかります。
もちろん八高線にはその後も何度も乗っていますが、1972年(昭和47年)の鉄道100年から43年ぶりにこの場所を自分の足で歩いて訪ねてみました。
すごいよね。43年ぶりだって。
43年後はないからね。
ありえないから。



越生を出る時には曇っていたけど、途中からドピーカンになってしまって、熱中症になりそうな状態になったので、明覚から八高線で寄居に出て、とりあえず水分補給のためにビールをいただきます。
いすみ鉄道もなかの箱を並べてみました。
名付けて「いすみ鉄道もなか in 寄居」
実は、私の鳥塚という姓は寄居に多くて、私は子供のころ父親から、「鳥塚の出は寄居の鉢形城主につかえていた家来の筆頭なんだぞ。」などと教えられた記憶がありますが、本当かどうか知らないけれど、寄居には数百人の「鳥塚さん」がいるはずなんですね。
全国に400件ぐらいしかない鳥塚氏の数百人が集まっているんですから、やっぱり何かあるのでしょうね。
先日は小平の鳥塚さんがレストラン列車に乗りに来てくれましたが、寄居の鳥塚さんのどなたかさんがルーツをご存知でしたら教えてください。
ちなみにお墓に書かれている屋号は「荒久」で、家紋は扇子が2つ。
閉じた扇子の上に開いた扇子が乗っています。



本日開業90周年の東上線を横目に、私が乗ったのは秩父鉄道。
この車両はわが青春時代の思い出の車両であります。
そして熊谷から大宮へ出て、大宮からは東武野田線。
今風に言うと「アーバンパークライン」に乗車。


大宮から柏を通って船橋まで全区間で1時間50分。
野田市を通るときには、隣のしょうゆ工場からいい匂いがしてきて、千葉県に戻ってきた実感がわきました。
本日は、足の向くまま気の向くままに、電車に乗って、そしてテクテクあるいて見ました。
越生-明覚間、5.2km。
昨日の会議の流れですから、革靴で歩いてしまいましたので、明日、動けなくなるかもしれませんね。
でも、43年ぶりに同じ場所へ行けたことは、とても面白い経験でした。
今度、他にも行ってみようと思います。