ありがとう 小関さん

春は旅立ちのシーズンであり、別れのシーズンでもあります。
いすみ鉄道でも退職されていかれる方がいらっしゃいますが、その中の一人、小関さんが本日でリタイアされました。
小関さんは昭和16年生まれ。
昭和34年に国鉄に入社され、ご本人いわく、当時の日本人としては大柄だったからでしょうか、蒸気機関車組に配属され、総武本線などのD51やC57、C58に機関助士から乗務されてきた経歴の持ち主ですから、まさに千葉の鉄道の生き字引のような方です。
小学校低学年の頃、亀戸駅のホームで電車を待っていた時、越中島からの貨物列車が目の前を通り過ぎて行きました。
当時、丸興というデパートがあって、その横のカーブを貨物列車を引いたD51が煙をモクモク吐きながら走ってきましたので、私は一生懸命手を振りました。
すると、その機関車の運転士さんが、白い手袋の手を振りかえしてくれて、汽笛を鳴らしてくれたんです。
思えば、その手を振ってくれた機関士さんや機関助士のお兄さんたちは、ちょうど小関さんくらいの方々だったんだと思いますし、もしかしたら小関さんだったかもしれません。
そういう私にとって原風景のような思い出を作ってくれた方と、一緒に仕事をさせていただいたのですから、大変光栄なことだと思います。
電化前の話ですが、両国からやってきた房総東線の勝浦行は、勝浦で停泊したのち、翌朝の両国行となって戻っていきます。
機関車はC57だったようですが、両国を出る時に、炭水車の後ろの方に燃料係が少し大きめの石炭を積んでおいてくれたそうです。
勝浦に着くと、勝浦の燃料係がその石炭を前の方にかき出してくれて、翌朝の上り列車で使うのですが、なぜ両国の燃料係が少し大きめの石炭を積んでくれたかというと、大網を出てから土気に向かう上り勾配で蒸気の上りを良くするためで、ちょうど帰り道に使えるようにと両国を出る時に炭水車の後ろの方に積んでくれていたそうですが、そんな話を聞ける職場は素晴らしい職場だと私は思います。今の時代にね。



鉄道一筋56年。いすみ鉄道には20年勤務されました。
本当にお疲れ様でした。

大多喜に戻ったキハ52と記念撮影。
小関さんは私が小学生の時に手を振ってくれた機関士さん、機関助士さんの世代ですね。
そういう乗務員の姿にあこがれて育ったんですから、お願いして記念写真を撮らせていただきました。
自動ブレーキ何てお手の物でしたね。
本当にお疲れ様でした。
ありがとうございました。
[:down:] ちなみに、こういう雑誌が発売されたころ、小関さんはすでに乗務員さんだったのですから、小関さんの偉大さがお分かりいただけると思います。
ここ数年は後輩の育成に全力を注いでくれていましたので、いすみ鉄道という会社には、しっかりと技術が受け継がれているということなのです。




[:up:] 私のライブラリーから引っ張り出した千葉県に関係ありそうな鉄道ピクトリアル誌です。