昭和の航空時刻表考察 その1

新幹線開業50周年を迎えた10月1日のブログで、新幹線開業10周年の昭和49年(1974年)の時刻表を引用して当時のお話をさせていただきました。
当時、私は中学2年生で、毎月の月初めには塾の行き帰りに池袋の旅行センターやみどりの窓口に立ち寄って、無料で配布されているポケット時刻表をもらってくるのが楽しみだったんですが、新幹線や特急電車のポケット時刻表よりも、実は飛行機の時刻表の方が興味があって、鉄道は運用や路線などもわかっていましたが、飛行機は未知の世界だったので、無料でもらってきた時刻表の隅から隅までむさぼるように読みふけっていた記憶があります。
飛行機に興味があったのは何も私だけじゃなくて、私の周りにも飛行機好きがたくさんいましたが、その理由は、当時日本航空の全面協力で制作された「白い滑走路」というテレビドラマで田宮二郎さんがジャンボジェットの機長役で、とてもクールでまじめなパイロット役を演じていて、それが中学生の間で大人気になって、子供たちはみんな学校で彼の真似をしてパイロットになりきっていたんですね。
「Flaps 20」
「Gear Down !」
「Roger !」
って感じで。
当時、日本航空では世界一大きな旅客機のB747を国内線にも導入し、このB747ジャンボジェットの機長さんは、それまでのYS11やDC8などの機長さんの中から特別に優秀な人たちが選ばれるというのがドラマの設定でしたから、そりゃ、子供たちから見たらあこがれるわけです。
で、中学2年の時に塾の帰りに池袋の旅行センターでもらってきた日本航空の時刻表がこれです。



縦14センチ、横7センチほどに折りたたんである時刻表の表紙は、毎月違うスチュワーデスさんが出ていて、きれいな人が表紙だと何部かもらってきてコレクションしていたものです。
今でも大切に保管してあるのですからすごいでしょう。
本当は、しまってあった箱の存在そのものを忘れていただけなんですが。

他にもたくさんあるんですよ。(笑)
セイコークオーツの腕時計の宣伝が懐かしいですね。
でも、この時計、当時の値段は141000円ですから目の玉が飛び出ます。
平均月差±5秒以内って、当時としてはすごいことだったんです。
さて、この時刻表で特徴的なのは、空港や各地の営業所の電話番号が書かれていること。今では代表ダイヤルでどこかのセンターにつながる仕組みですが、当時はそれぞれの営業所や支店に直接電話をかけていたんですね。
その後、「爆弾を仕掛けた」などの嫌がらせ電話がたくさんかかってくるようになったことから、航空会社はどこも電話番号を掲載することを控えるようになりました。そして、予約を含めさまざまな案内や問い合わせを一括して受けるセンターが開設され、今のようなシステムになったんですが、0120のフリーダイヤルだけじゃなくて、03で始まる番号にかけても相手は東京だとは限りません。大阪で出たり沖縄で出たり、中には香港や北京につながる場合もあるのは皆様すでにご存じだと思います。
さて、時刻表を開いてみましょう。



当時の日本航空は札幌から沖縄まで、たった1枚の紙に収まるフライトしか飛んでなかったんです。
国内線としての就航地は札幌、東京、大阪、福岡、沖縄だけ。
その他の地域は全日空と東亜国内航空(のちの日本エアシステム、そして日本航空に統合)が担当で、日本航空は国際線と国内幹線だけの就航だったんです。
これは当時の運輸省の国策で、全日空がどんなに頑張っても国際線はやらせてもらえなかったのですが、当時の全日空はそういうお上の策に対する反骨精神にあふれていて、なかなか骨がある面白い会社で、国民は皆全日空を応援していたんです。今の全日空とは全く違う社風でした。
さて、この時刻表から面白いと思うことをいくつかピックアップしてみましょう。

少し拡大してみますが、まず最新鋭機B747で運航する便は赤で記されています。「ジャンボSR」と書かれていますが、それだけ最新鋭機に対する期待があったことがわかります。
日本航空の場合、無印の便はDC8-61(胴体の長いストレッチタイプ)、DはDC8(標準タイプの-30など)、BはB727-100で、全日空のB727はストレッチタイプの-200だったのに対し、日本航空のB727は短い機体でしたので一目で違いが判りました。
当時の日本の空は、日本航空、全日空、東亜国内航空の3社体制でしたが、悲しいことに3社ともよく墜落事故を起こしていました。
それがDC8だったり、YS11だったり、B727だったり、さまざまな機種だったものですから、日本航空としては最新型のジャンボジェットの安全性を強調するために時刻表に赤いマークが入っていたのではないでしょうか。
航空の歴史の中で、当時は技術の発展途上でしたから、新しい飛行機ほど安全性が高いという考えだったんですね。
さて、この時刻表から他にも気が付くことがいくつかあります。
一つは区間所要時間が今よりも短いということ。
札幌→東京 1時間30分 (現在は1時間40分)
東京→大阪 55分 (現在は1時間5分)
東京→福岡 1時間40分 (現在は1時間50分)
東京→沖縄 2時間30分 (現在は2時間40分)
それぞれ10分程度、時刻表での時間設定が今の方が長くなっています。
40年経過しているわけですから、当時の飛行機と今の飛行機を比べると当然今の方が離陸上昇性能など良くなっているわけで、今の方が時間がかかっていることはなんだか不思議ですが、これは航法と呼ばれる飛行機の飛び方の違いで、離陸上昇時や着陸のために降下していくコースが、今ではきちんと定められていて、少し遠回りになっていることや、今はスピードよりも燃費を優先にすること、大きな空港では離陸までや着陸後に地上滑走の時間がかかるようになったことなどがあげられます。
逆に言えば、当時は離陸して空港の空域を抜けさえすれば、あとはフルスロットルで一直線に目的地へ向かって飛んで行くようなことがまかり通っていて、レーダーが十分に完備されていない地域では、着陸のために近道をしたり、先に飛んでいる飛行機を追い越したり追い抜いたりすることは日常茶飯事だったようです。
区間記録などを競っていたのも当時のことで、東京―大阪を30分切ったなんて話も聞いたことがあります。
昭和41年に羽田沖で札幌からの全日空機が墜落した事故がありましたが、これも先行している日本航空機に対し、近道をして先回りをしようと既定のコースを外れ急降下したことが事故の一因とされています。そういう時代だったんですね。
逆に今と同じなのはフライトナンバーです。
東京-札幌便は500番台、大阪便は100番台、福岡便は300番台、沖縄便は900番台と、日本航空の便名は伝統の番号であることがわかります。

また、長距離便には番号以外に名前が付いていて、札幌―大阪便は「ユーカラ」、札幌―福岡便は「レインボー」と呼ばれていました。
そのような便には「M」のマークがついていてこれは機内食がサービスされるMEALマーク。
今のように他の人がSNSで写真をUPするなんてことは考えられない時代でしたから、どんな機内食なのか、想像するより方法がありませんでした。
おそらくサンドイッチ程度の簡単なものだったに違いありませんが、空に対する憧れと期待感から、相当おいしいものが出されるんだろうなあと思っていました。
走り去る特急列車の食堂車を見送りながら、何を食べてるんだろう、いつか乗ってみたいと思っていた時代です。
今のように物が豊富で豊かな時代ではありませんでしたが、想像力を膨らませれば、それなりに楽しい時代でしたし、そういう時代を過ごせてよかったなあと思います。
無料でもらってきた航空時刻表を見るだけで、これだけのことを思ったり考えたりできるわけですから、本当に楽しいと思うのです。
ただ、一つだけ残念なのは、これだけの時間と労力を時刻表じゃなくて勉強の方に使っていれば、きっともっと大物になったろうなあと思いますが、それができたら苦労しませんから、きっと今の自分で良しとするのが得策なんでしょう。
人には器というものがありますから、これが私の器だということですね。
(つづく)