昭和の時刻表 木原線

以前にもご覧いただいたことがあるかとは思いますが、昭和の国鉄木原線の時刻表です。
JTB1973年(昭和48年)5月号からの抜粋です。

この時刻表を見て気付くポイントがいくつかあります。
まず、大原20:06発の53Dと22:05発の55Dが上総中野へ到着した後には折り返しの列車がないということです。
これは何を意味するかと言えば、2つの列車が上総中野駅で停泊していたということになります。
では、その停泊した列車は翌朝どうなるかというと、上総中野駅に大原方面からやってくる一番列車は7:36着の33Dですが、それよりも前に34・36・38Dの3本の列車が大原へ向けて上総中野を出発します。
前の晩2本入って来て停泊した列車が翌朝3本になって出ていくわけです。
上総中野駅は当時の国鉄線としてはホーム1面1線しかなく、小湊鉄道に間借りをする形でした。
ということは、実際にどうしていたかというと、21:06に上総中野駅に到着した53Dは、到着後入換をして側線へ入ります。
その後23:01に55Dが到着。おそらく55Dは4両編成だったのでしょう。木原線のホーム有効長から考えて、後ろの2両は締め切りだったのかもしれません。
その4両編成で深夜に上総中野に到着した列車が、翌朝、2両編成2本に分割されて34Dと36Dとして上総中野を発車。その後、側線に留置されていた前夜53Dで到着した列車を入換してホームに据え付け、38Dとして6:44に大原へ向けて発車。その列車が大多喜着7:10ですから、ここで下りの上総中野行33Dと交換していることがわかります。
翌朝3本の列車を出すために運転士と車掌3組6人の乗務員も上総中野に宿直していたことになりますが、近所の民家を国鉄が借り上げて、そこに寝泊まりしていたようです。この当時のことを知る乗務員さんがまだいすみ鉄道に勤務されていますが、今は60過ぎてお爺さんに近くなってきた人も、当時は下っ端でしたから、先に宿直所へ入ると、後から来る先輩のためにお膳を用意しておいたなんていう楽しい話も聞くことができます。

時刻表と同じ1973年ゴールデンウィークの上総中野駅。
列車は52Dだったと思いますが、この日はキハ11が運用についていました。
中学1年生の時に上の時刻表を見て計画を立てて実際に訪ねた時の写真です。
この時は五井から小湊鉄道線に乗って、養老渓谷の河原に降りた記憶がありますが、駅からバスに乗った覚えはありませんので、歩いて行ったのでしょうか。
上総中野の構内の様子は今もほとんど変わりません。
キハが停止している右に見える側線を当時は停泊車両が使用していたということになります。
上総中野から早朝に3本もの列車が上り方面へ設定されていて、そのために乗務員を6人も泊まり込みさせているということは、それだけ需要が多かったということが時刻表を見るだけで理解できますね。
当時は市原市の加茂地区から小湊鉄道線で養老渓谷を越えて上総中野まで来て、木原線に乗り換えて大多喜高校へ通う生徒もたくさんいたようで、上総中野を出る時からすでに列車は混雑していたというお話を耳にしますが、私にしてみると、時刻表を見ただけでそういうことが良くわかるのです。
この時刻表を解読すると、気が付くことは他にもあります。
大多喜方面から大原方面への通勤通学輸送需要です。
朝の輸送が上りが多く、夕方の輸送が下りが多い。
特に上り列車の最終が上総中野19:50発なのに対し、下り列車の最終は大原発22:05。
ということは、朝、上総中野方面から大原方面への輸送が主流で、夜は大原方面から上総中野方面への輸送が主ということですから、一言でいえば、大多喜町の人たちが千葉方面へ通うためのダイヤ設定ということになります。
大原方面からの大多喜高校の生徒さんたちは35Dで通ったのでしょうね。
上りも下りもちょうど学校に合わせるかのように8:10過ぎに大多喜に到着しているのは今のいすみ鉄道も同じです。
特筆すべきは【土曜日運転】の上り9046D。
これは土曜日午前中で授業が終わるのに合わせて運転されていたと思われますが、大多喜発の列車があるにもかかわらず、大原方面から大多喜までやってくる列車がありません。
これでは使用する車両が無いことになりますから、運転することができないはずです。
「おかしいなあ」と思ってよく見ると、下り41Dの上総中川―大多喜間が11分かかっていることがわかります。
2本前の大多喜止まりの37Dが上総中川―大多喜間を6分で到着していますから、41Dは大多喜で5分停車していることがわかります。
ということは、土曜日に関しては41Dが増結でやってきて、大多喜で増結車を切り離して、その車両が折り返し9046Dとなるわけですね。
これが、時刻表を読書する、つまり国語の授業で言ったら「行間を読む」ということなのです。
さて、この時刻表を見ると、大多喜からの上り列車は午後8時過ぎに終了しています。これは今も同じなんですが、大原方面からの下り列車は22時過ぎまであります。これを見て私は、大多喜の人たちが、千葉、東京方面へ出かけていて、都内に午後8時頃まで滞在しても、外房線に乗って大原乗り換えで大多喜へ帰ってこられるように、今の終列車の後に、もう1本ぐらい下り列車があってもいいのではないかと思います。いくら車の時代とはいえ、ちょっと1杯飲んで帰ってくるとしたら、やはり鉄道が威力を発揮しますからね。
当面需要はないかもしれませんが、そういう列車が走っているというだけで、「遠いところ」というイメージがなくなると思います。会社に体力があればやってみる価値はあると思いますが、なかなかそうできないのが現実であります。
移住の対象となる人たちが持つ遠くて不便だという印象を、少しでも払拭することができれば、現役世代の人たちが「住んでみようかなあ。」という気持ちが起こるもの。
乗らない列車でも、走っていれば「乗ろうと思えば乗れる」わけですから、地域の条件としては必要なのではないかと、昭和の時刻表を見ていて思うのであります。
(つづく)