関東鉄道の竜ヶ崎線は常磐線の佐貫という駅から分岐する4.5キロの路線で、全線非電化。ディーゼルカーが1両でのんびり走るローカル線です。
この竜ヶ崎線は、今年で誕生から111年。
いすみ鉄道が81年ですから、いすみ鉄道が開通する30年も前から走っているすごい鉄道です。
さらにすごいのが、開業当初から佐貫-竜ヶ崎間4.5キロを走っているということ。
110年間も、線路延長もなく、廃止されることもなく、毎日毎日4.5キロを行ったり来たりって、すごくないですか?
そして、関東鉄道によれば、この路線の収支はトントンとのことで、ローカル線ではありますが、「赤字」という冠は付かないのもすごいのです。
ではなぜ、このような短い路線が誕生したのでしょうか。
100年以上も前の人たちが何を考えて、どう行動していたのか、探ってみるのは面白いことです。
明治時代には鉄道の建設が各地で進められました。
常磐線は東京から北を目指し、北海道へ連絡する目的で、日本鉄道という会社名で建設がすすめられましたが、当時の人たちは、「汽車が通ると牛がお乳を出さなくなる」とか、「汽車の煙突から出る火の粉で火事が起きる。」(かやぶき屋根がほとんどでしたから)と言って、自分たちの町に汽車が来ることを嫌がりました。
まあ、今でも騒音問題とかがありますから、同じような感じではあるのですが、実際に反対した人たちは、馬車を使って物を運ぶ陸運業者や、旅館組合の人たちだったようです。
当時の千葉県北部や茨城県南部は利根川水系を利用した水運と、江戸への陸運が交わるところでしたから、流山市や龍ヶ崎市は物資の積み替えのターミナルとしてとても賑わっていました。
当然、地元の有力者と言われる人たちは、そのような業種に関係する方が多いわけですから、汽車にやってこられると自分たちの商売があがったりとなるわけで、猛反対したのでしょう。
こうして常磐線は当時賑わっていた流山も龍ヶ崎も避けて通ることになり、それが現在も続いているのです。
一旦は反対したものの、鉄道が通るようになると、どうしても流れは鉄道になります。
龍ヶ崎の人たちも後になってそれに気がつきましたが、時すでに遅く、常磐線は自分たちの町をかすめることなく避けて通ることに。
仕方がないので常磐線の線路につなげるために自分たちで連絡鉄道を敷いたのが、私鉄として竜ヶ崎線なのです。
現在の佐貫駅は、当時は集落など何もないところに作られた龍ヶ崎への乗換駅だったわけです。
これは同じ常磐線から分岐する流山電鉄も全く同じ。
100年前の人たちは、おそらく悔やんでも悔やみきれないでしょうね。
今、いすみ鉄道の走る沿線地域は、アクアラインに直結する圏央道が2年後には開通する状況にあります。
私はこれを100年に一度あるかないかのチャンスだと考えています。
地元も、いろいろ動き出しているようですが、ぜひ、このチャンスを活かしていただきたいと切に願っているのです。
城見が丘の駅から歩けるところに2000万円ぐらいで70坪ほどの新築一戸建て(もちろん土地付き)を建てて、田舎暮らしをしながら、東京の会社まで高速バスで1時間で通勤が可能。
そういう暮らしができる土地になるのですから都会の人たちにとって需要は計り知れません。
100年前の人たちは何をやっていたんだ、と100年後に言われないように、ということですね。
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