峠を越える交通 その2

今から30年以上も昔ですが、私はオートバイが好きで、休みの度に愛車に乗っていろいろなところを走っていました。
ある初夏の日、長野県の川上村から埼玉県の秩父三峰口に抜ける峠道を走っていた時のことです。
小海線の信濃川上から山に入ってつづら折りの道を登っていくのですが、ずっと舗装された走りやすい道が峠の頂上まで続いていました。
ところが、峠を越えて、埼玉県側に入った途端に舗装道路が終わって砂利道に変わったのです。
オートバイで走りながら、私は「えっ?」と思いました。
当時の私の常識では、田舎へ行くほど、道路が悪くなっていると思っていました。
埼玉県より、長野県の方が東京から遠く、田舎ですから、長野県の方が道路が悪いはずなのに、実際には東京に近い方の埼玉県側の方が道路が悪くなっている。
つまり、長野県側は舗装されていたのに、埼玉県側は砂利道だったのですから、その常識を覆されたのです。
(30年以上前の話ですから、今はどうなっているか知りません。)
このことがあってから、私はちょうど学校で交通の勉強をしていたこともあって、地域の交通に対する考え方をいろいろ調べてみたのです。
そしてわかったことは、日本では、だいたいどの地域でも、文化や経済などで人々の目が東京や大阪などの大都市を向いているということ。
長野県の人も埼玉県の人も、みんな東京の方を向いている。
そして、長野県から見ると埼玉県や山梨県を越えた向こうに東京がある。
だから、長野県の人にとって見たら、東京への入口に当たる埼玉県境はとても大事なところで、道路にもそれだけ力を入れていたのです。
ところが、埼玉県にとってみれば、目が東京に向いている前提で考えれば、長野県側は背中に当たるところですから、道路にも力を入れていなかったのです。
これが、長野県側が舗装道路だったのに対して、埼玉県が砂利道だった理由です。
こういうことは、日本全国いたるところで見られる現象です。
東京に近い方、大都市に近い方へ人々の目が向いていますから、背中に当たる方面への道路や鉄道にはあまり力を入れていないというのが、今でも実情のようです。
前回お話ししましたいすみ鉄道と小湊鉄道との連絡駅である上総中野も、全くその通りで、房総半島経済の中で、地域の人たちが、県庁所在地である千葉市や東京に目が向いていることを考えると、小湊鉄道沿線の人たちの目は五井、そして千葉方面に向いているから、いすみ鉄道側は背中に当たりますから、小湊鉄道としても、いすみ鉄道への接続をよくすることに、多額の資本を投下することはできないのかもしれません。
ところが、いすみ鉄道にとってみれば、小湊鉄道は東京への入口に当たる方角だから、五井方面からのお客さんを運んできてくれるのも小湊鉄道なので、いつもそちらに目が向いていますから、全部の列車を接続させてもらいたいなあ、と思ったりするし、キハ52が上総中野に入る時間に、小湊鉄道の列車がやってこないかなあと考えてみたりするのです。
森田知事が800円にしてくれたアクアラインもそうですね。
千葉県の人たちにとっては東京へつながるとても重要なルートであり、経済活性化の大きなツールなのですが、東京や神奈川の人にしてみれば、まあ、あれば便利だねという程度の重要性でしょう。
瀬戸大橋だって、明石海峡大橋だって、四国側にしてみればとても重要な交通ルートですが、東京や大阪に目が向いている前提でいえば、本州側の兵庫や岡山の人たちにしてみれば、背中にあたる部分。
青函トンネルだって、北海道の人から見れば東京への需要なルートと考えていたので、建設中は開通が「悲願」と言われていましたが、本州側にとってみれば、東京への新幹線整備を先に進めてほしかったというのが実情でしょう。
実際に地方へ行ってみると、その地域の人たちが何を考えているかを知る上で重要なのが、この「どちらを向いているか」ということ。
地方の人が東京を向いているとすれば、もっと大きな視点で見れば、日本人はいまだにアメリカを向いているから、どうしても太平洋の方が正面に当たる。だから、日本海側を「裏日本」なんて呼び方で読んだりするのです。
これ、すごく失礼な言い方ですよね。
中国やロシア、そしてアジアを向いて経済や人の流れを考えた時、日本海側は表玄関に当たりますし、九州は邪馬台国の時代から日本の玄関口。
実際にアメリカとの交通を考えても、ニューヨークやロサンジェルス方面からの飛行機は、だいたいカムチャッカの南の方、つまり、東京から見たら北海道の方から飛んでくるし(季節によって変わりますが)、ヨーロッパからの飛行機もロシアから奥尻島の沖を通って新潟から日本に入ってくるのです。
日本は、島国ですから、海が交通や文化を遮断していることが、こうした外国との交流でよくわかりますが、一旦日本の国に入っても山岳地帯の峠で交通が遮断されてきたため、文化や経済が独特の発展を遂げてきたと言えるのです。
こういう視点に立って自分の周りを見渡してみると、きっと新たな発見があると思いますよ。(今住んでいる街にしたって、皆さんはだいたい自宅から駅の方を見ている。だから、自宅から見て駅に遠い側には背中を向けているのです。)
ところで、私がいる大多喜はどうかというと、大多喜町は勝浦市、御宿町、いすみ市と合わせて、昔は夷隅郡市と言いました。お城があるぐらいですから、大多喜は旧行政区でいえば中心地であり、地域を統括していたところです。
メキシコの船が難破して御宿の海岸に打ち上げられたときに、大多喜のお殿様が丁重にもてなして、新しい船を建造してメキシコに帰してあげた。これが400年前の話ですが、その時は御宿の海岸線は大多喜の領地だったということがお解りいただけると思います。
そのころから、文化や経済は海からやってくるか、陸路でも茂原や大原の方からやってくるというのが大多喜の常識だったのです。
だから、私が見る限り、大多喜の人は今でも、茂原や大原、勝浦方面へ目が向いています。
これが、この地域の特徴です。
日本全国、地域の人たちの目が東京の方を向いていると申し上げましたが、大多喜から見れば、人も経済も皆、海からやってきたし、近年まで東京へのルートも(鉄道を含めて)大原や茂原経由が一般的でしたから、どうしてもそちらの方を向いているのです。
町のすぐ北側が山にかこまれて、峠がありますから、どうしても山を背にして海の方を向いているように思えるのです。
でも、地図を見てよーく考えてください。
大多喜の背にした山の向うに千葉市も東京もある。
つまり背中を向けている方に東京があるのです。
(つづく)