昭和の航空時刻表考察 その5


今日は昨日に続きTDA(東亜国内航空)の1974年7月の東京発の便を見てみましょう。
昨日は東京発の花巻、新潟便まで解説しましたが、南に目を向けると、東京からは当時、大分と鹿児島にジェット便が就航しているのがわかります。大分にも鹿児島にもDC9とB727が就航していますが、よく見ると便名が同じです。ということは、羽田から鹿児島へ行く便は大分を経由していたということに気づきますね。
例えば羽田を7:35に出る331便はB727での運航で大分には9:05に着きます。そして鹿児島には10:20に到着するのです。
大分空港の欄は取り上げませんが、9:05に大分に着いた331便は35分駐機して9:40に大分を出て鹿児島に40分後の10:20着となっています。
この時代に大分―鹿児島の区間便にジェット機1機分のお客様が乗るとは思えませんが、これも、TDAは空のローカル線を担当していましたから、東京―鹿児島のような輸送量が大きい路線に何とか就航するために編み出した術なのかもしれません。(真相はわかりませんが。)
さて、もう一つ注目するのは、羽田から福岡への便。
札幌と同じように、この時代はすでに羽田―福岡はJAL、ANAの天下でしたが、TDAとして何とか幹線に就航させたいということから1日2便のYS11によるフライトで、1本は高松経由。もう1本は深夜便の「ムーンライト」として運航されています。
大手2社がジェット機で1日10便以上を飛ばしているのに、TDAはYS11で2便。それも経由便であったり時間が悪い深夜便であったりと、当時は運輸省がいかに3社をコントロールしようとしていたかが良くわかりますし、それに対してTDAは何とか幹線に進出しようとしていたことも良くわかります。
「ムーンライト」と言えば、JRが運転する季節臨の夜行列車を連想される方も多いと思いますが、もともとは国内航空の深夜便の名前で、こういった深夜便が廃止された後、しばらくたってからJRが名前をパクったということもご理解いただけるのではないでしょうか。
さて、東京便はこれぐらいにして、紫色の大阪空港発着便を見てみましょう。
大阪空港発着欄の3番目に南紀白浜とありますが、大阪―南紀白浜のような短距離路線が当時あったのは驚きです。ところがそれよりも驚くのがその下の広島、宇部便。当時は山陽新幹線が岡山止まりでしたから、大阪から広島へは岡山まで新幹線で行ったとしても3時間半以上かかりました。だから、大阪の伊丹空港から広島や山口県の宇部に向けた便がたくさん飛んでいたのです。
大阪から広島へは1日7便。宇部には1日3便が飛んでいますね。
1974年と言えば、広島出身の吉田卓郎さんや西城秀樹さんが大ヒットを飛ばしていた時代でしたから、彼らもこういった航空便を利用していたんだろうなあと思います。当時の広島空港は宇品にあって、数年前まで広島西飛行場として残っていましたが、今は定期便がなくなり、ヘリポートとして利用されているようです。
新幹線の開業後、広島はジェット化のために新空港に移転して、市内から空港が大変遠くなってしまいましたが、当時は飛行機はぜいたく品で、発着する空港は非日常施設として考えられていましたから、そういう扱いが日本各地であって、広島以外にも秋田や鹿児島など、ジェット化に伴って市内からはるか遠くなってしまった空港が多くあります。この5年後に開港した成田空港も都内からとても遠いところにありますが、今になってみると、羽田の国際空港化など、近いところの方が利便性が高いことは明白になっていますから、わからないものですね。

新幹線が岡山止まりだった頃の時刻表です。
岡山まで新幹線で行って山陽本線の特急に乗り換えるコースが最短でしたが、関西方面から山陽本線を走り岡山以西へ行く特急列車もあって、新幹線とダブルトラックだったことがわかります。
おそらく、東京方面からの人は岡山乗換でしょうが、大阪の人は在来線の特急列車で広島方面へ行っていたのでしょうね。


ところが、山陽新幹線が岡山から博多まで開業したのがその翌年の1975年(昭和50年)3月。すると、その翌月の4月号のTDAの時刻表では、大阪―広島の便は3本に減便されています。


そして、2か月後の6月には2本になって、翌年には大阪―広島路線は廃止されています。
新潟や仙台、花巻の例もそうですが、新幹線ができれば飛行機はいらなくなるというのが当時は当たり前の考えで、乗客は皆新幹線へ移行してしまったわけですが、では今の時代はどうかというと、高速バスやLCCなど、格安の旅行手段はいろいろあるし、LCCじゃなくても、大手の航空会社でも条件さえ整えば格安の航空券を購入して新幹線よりも安く旅行ができますから、私は、新幹線待望論の時代は終わったと確信しているのですが、これから新幹線を迎える地域の人たちは、「とにかく新幹線」でしょうから、少し考え方を変えた方が良いのではないかと思う今日この頃なのです。


さてさて、山陽新幹線が博多まで延伸開業した1975年の4月号のTDA時刻表にはまだまだ驚きがあります。
まず、路線図に書かれている機種がDC9とYS11の2種類になっていること。
そうです1年前に飛んでいたB727は退役して、TDAから姿を消しているんです。
そして、DC9で東京―札幌―福岡線という待望の幹線に進出しています。
前年まで東京への深夜便1本だけだった札幌千歳空港発着便も格段に増えて、札幌―釧路間の道内便にもジェット機が飛び始めています。
東京便もDC9が進出して「オーロラ」と呼ばれていた深夜便が姿を消しています。
日本全国の鉄道路線では急速に無煙化が進み、SLが次々と姿を消していきましたし、新幹線だけじゃなくて在来線も航空路線も、目まぐるしい大きな変化が起こっていたことがお分かりいただけると思います。
私は、そういう時代に中学生でしたから、鉄道も飛行機も目が離せなくて、勉強する時間など本当になかったんですね。
どうです、皆様。
数回にわたり1970年代の航空時刻表をひも解いてみましたが、大変興味深いのではないでしょうか。それはなぜかというと、「昔はこうだった。」というだけの話ではなくて、こういうことを知ることによって、ある程度将来の姿が見えてくるような気がするわけで、例えば小松空港や函館空港の定期便は来年再来年にはいったいどうなるのだろうか。いや、どうするべきなのかということを考えていく必要があるのではないかと私は思うのです。
過去を考察することで未来が見えてくる。
でも、鉄道、航空、バス輸送と、交通体系をトータルに考える人や組織がこの国にはないということも事実なのですから、北陸新幹線、北海道新幹線の開業も両手放しで喜んでいる場合ではないと私は考えるのです。
いずれにしても、昭和の航空時刻表が示すように、何もしなければ、または今までと同じことをやっているだけでは、近い将来に同じ結果が出ることになるのです。
新幹線も良いですが、飛行機や高速バスなどを合わせたダブルトラック、トリプルトラックを考えていくことが地方の発展につながることは間違いないのです。
(おわり)