今日はパンツの話ではなくてタオルの話
かれこれ10年ちょっと前になりますか。
私は突然ぶっ倒れて動けなくなりまして、ビョーインにニューインしたのです。
あれは、伊豆大島に台風がやってきて大きな被害が出た時。
ニューイン初日はその台風の影響で大雨で、ニューインという人生初の経験で不安に駆られた私のビョーシツの窓を暴風雨が叩いていたのであります。
でもって、不思議なんですけど、外は雨なんですよ。
でも、目を閉じると粉雪が降っているのです。
瞼(まぶた)の内側を、まるでサラサラと音を立てるように粉雪が降ってる。
そして、その光景が意外にもきれいで、私はベッドの中で目を閉じて、うっとりと粉雪が降るのを見とれていたのです。
小さい時、うつぶせに寝ると瞼の内側に飛行機から見るような夜景が広がっていたのを覚えています。
同じ経験をしたことがある人もいるかもしれませんが、その時はまた飛行機なんて乗ったことありませんでしたが、あれは確かに光り輝く夜の街を上空から見た景色。
それがゆっくりと動いていくんです。
私だけかなあ?
でも、毎日毎晩、うつぶせに寝て、その景色を見るのが楽しみだったんです。
それと同じように、目を閉じると粉雪が舞っていて、私はそれに見とれていたのです。
さて、ビョーインの話。
私は何も食べることができず、ベッドから動くこともできず、点滴を2~3本繋がれてじっと目を閉じて粉雪が降る街角を見ていました。
そう、谷崎潤一郎の「細雪(ささめゆき)」の世界を思い出しながら。
そして朝になるときれいなナースがやってくる。
検温、血圧測定、「体調はいかがですか?」
いかがですかも何もない。
私はペイシャントですから、ペイシャントで居なければならないのです。
でも、きれいなナースは毎日違う人がやってくる。そう、それもまた「細雪」の世界と同じで、4人の姉妹がかわるがわるやってくるのです。
で、私は「こいさん」が良いなあと思いました。
そのこいさんが来るのを心待ちにしていました。
で、こいさんが夕方タオルを持ってきてくれたんです。
熱々のタオルを4本。
その4本のうち、オレンジ色のタオルが1本、白いタオルが3本。
お風呂に入れない間は、このタオルで体を拭いてください。
こいさんはそう言うと部屋を出ていきました。
で、考えたんです。
この色の違いは何かと。
ちょうど入れ違いにカミさんがやってきたので、私はカミさんに「このタオルの色の違いは何か?」と尋ねました。
カミさんは「体を拭くタオルと顔を拭くタオルじゃないの?」
確かにそうだ。
ビョーインのタオルはもちろん消毒してあるとはいえ、体を拭くタオルと顔を拭くタオルは分けなければいけません。
どんな人が使ってるかわかりませんからね。
で、オレンジ色が1本、白が3本ですからね。
オレンジ色が顔を拭くタオル、白が体を拭くタオル。
カミさんと私の意見が一致しました。
そして、私は毎日毎日、蒔岡家の4人姉妹が交代で運んで来る4本のタオルで、顔と体を拭いていたのです。
で、ある時、こいさんがいつものようにタオルを持ってやってきました。
ちょっとお話をしていると話題がタオルの話になりました。
私は何気なくタオルの色の違いはどういう意味があるんですかと尋ねました。
するとこいさんはにっこり笑って、
「白いのは体を拭くタオルです。オレンジ色のはおしりを拭くタオルです。」
ガビーーン!
私はこいさんのその一言に奈落の底に突き落とされたのです。
そう、色がついているタオルは陰部を拭くタオルで、白いタオルはそれ以外の全身を拭くタオル。もちろん顔もそれで拭くのです。
こいさんが私を見て「どうしましたか?」という目をしています。
その目はまるでお互いに思い合っている二人が、私はあなたのことが好き。たぶん本当はこの人も私のこと好きなんだろうなあ、と思っていても口に出せない時のあの目であって、私はと言えば、こいさんの気持ちはたぶんそうなんだろうなあと思っているけど、なんだか怖気づいて口に出して告白できない、そんな目をしていたのでしょう。
もっと早く告白していれば、こんなことにはならなかったのに。
私は自分の意気地の無さに歯ぎしりをする思いで、こいさんは煮え切らない私に愛想をつかしたかのようにビョーシツを出ていきました。
そして、そのこいさんと入れ替わるようにカミさんが部屋に入ってきました。
私のその表情を見てカミさんは何かを察しました。
「どうしたの?」
私はこいさんへの思いをカミさんに見破られてしまったかのように心臓がバクバク。
そして、その気配を悟られないように強い口調でカミさんに言いました。
「おい、オレンジ色のタオルは、尻拭きだぞ!」
「えっ?」
と、うろたえるカミさん。
「お前がオレンジ色のタオルは顔を拭くやつだって言ったから、俺は毎日顔を拭いてきたんじゃないか!」
するとその時です。
うろたえていたカミさんの目が、急ににやけたかと思うと、下を向いて肩が震えだしました。
そして、腹を抱えるようにうずくまりながら笑い始めたのです。
カミさんは江戸っ子です。
てやんでえ、べらんめいの女です。
一度笑いだしたらもう止まりません。
鬼のような形相をして、涙を流しながら転がりながら笑っているのです。
「あなた、今まで毎日お尻拭きで顔を拭いてたのね。」
うるせえ、馬鹿野郎!
風呂に入れないニューイン患者が、どこの誰かもわからないニューイン患者が、ましてここは内科の、下痢症の人たちがニューインしているビョー棟の患者たちがかわるがわる使っていた尻拭き用のオレンジ色のタオルで、かれこれ2週間も私は顔を拭いていたのであります。
そして、ふと気が付くと瞼を閉じても粉雪が降る景色は見えなくなっていたのです。
それから私の体からは点滴のチューブが外され、私は尻拭きのタオルで顔を拭くこともなくなり、シャワーを使えるようになったのです。
不思議だなあ?
あの粉雪は何だったんだろう?
そう思って10年ほどの月日が流れたある日、私は熱を出して寝込んでしまいました。
今度は一人です。
べらんめいのカミさんはいません。
困ったなあ、どうしよう。
私はベッドに横になって目をつむりました。
するとどうでしょう。
閉じた瞼の内側でサラサラと音を立てるように粉雪が降り始めました。
朦朧とした意識の中で、あぁ、久しぶりに見る景色だなあ。
きれいだなあ。
そう、あの谷崎潤一郎の世界がまたやってきたのです。
外は梅雨の雨だというのに私の瞼の内側でしんしんと降りしきる粉雪。
きれいだなあ。
よし、今度こそタオルの色を間違えないようにしなければ。
気がつけば、こいさんが来てくれるのを首を長くして待っている私がそこにいたのであります。
写真と本文は関係ありません。
ただ、こいさんが私のところへタオルを持って来てくれていたころ、頸城平野ではこんな電車が走っていたのでありました。
▼参考記事
良いパンツと、悪いパンツ | 大井川鐵道社長 鳥塚亮の地域を元気にするブログ (torizuka.club)
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