佐倉のハチロク

私の自宅がある千葉県佐倉市はかつては鉄道の町と言われていたところです。

先日訪ねました奈良県の王寺町もそうですし、直江津も糸魚川も市民の皆さんは鉄道の町と名のっています。
その理由は、かつて国鉄時代に機関区があって、輸送の中心地だったからです。

機関区というのはいわゆる機関車の車庫。
何十両もの機関車が所属して、運転されていたところです。
そう、昔の国鉄は動力として機関車を使っていました。

機関車というのは先頭に付いて列車を引っ張る車両で、蒸気機関車からディーゼル機関車、電気機関車と変わっては来ましたが、機関車が1両あると貨物列車にも旅客列車にも使うことができて、時には工事用車両などにも使えましたから、とても重宝がられたのです。

それが、JRになってから旅客鉄道と貨物鉄道に分離されましたので、今では機関車はほとんどすべてが貨物列車用で、旅客列車で機関車が引くものは特別なイベント列車などを除くとありませんので、若い人たちにはよくわからないかもしれませんね。

その機関車の車庫があったところというのは直江津もそうですし佐倉もそうですが、運転だけじゃなくて整備士などたくさんの職員が働いていて、一つの町が形成されていました。
直江津駅には最盛期の昭和30年代には800人の職員がいたと言われていますから、その家族を含めると数千人になるわけで、そういう人たちが駅近くの官舎に住んでいれば、その暮らしを支える商売をしている商店街があって、旅行者のための旅館や食堂、土産物店があって、鉄道を中心に経済が回っていましたから、そういうことすべてを合わせて「鉄道の町」ということになるのです。

さて、直江津もそうですし、糸魚川にも王寺にも「鉄道の町」と言われるところには、たいてい今でも昔の機関車が保存されています。
公園や学校などに保存されていて町のシンボルになっているのですが、佐倉にも昔総武本線で使用されていたハチロクという愛称の機関車が保存されています。

このハチロク、正式には8620型と呼ばれる機関車は、大正時代に初の国産機関車(日本で設計製造された初の形式)として作られたもので、わかる人にはわかる大変貴重なものです。
それまでの日本はアメリカやヨーロッパから機関車を輸入して、ライセンス生産していましたが、鉄道が開業して40年もすると、自分たちの技術も向上してきたので、日本でも機関車が作れるようになったという機械の歴史的にも価値がある産業遺産なのでありますが、ご多分に漏れず行政関係者にはそういうことを理解する人がいないために、公園に保存されていて、50年という歳月が経過して、元国鉄職員の皆さんを中心とした保存会の人たちも、高齢化で思うように活動できない状況になっています。

そんな時に私が直江津で空気で動くD51を走らせて鉄道の町を盛り立てる活動を始めたので、私の友人の会社の社長さんや市会議員のおじさんたちが、このハチロクも何とかならないかと、私が千葉の家に帰るのを待ちかねて、この間から相談を受けているのです。

そこで、これまた私の友人で、保存機関車をピカピカに直してしまう活動をしている入江さんという人が九州にいるのですが、その入江さんの話をしたところ、ぜひお願いしたい。まずは機関車の状態を見に来ていただいて、どの程度傷んでいるのか。どこまで修復が可能なのかということを調査して欲しいという話になりまして、先日の土曜日に入江さんが九州から飛行機でやってきまして、現地調査をしたのであります。

佐倉駅近くの公園に保存されているハチロクを調査する入江さんと、話を聞く保存会と市民の方々。

その後、各地の保存活動について座学をしていただきました。

佐倉市というところはかつて城下町として栄えたところで、今でも国立の歴史民俗博物館があるなど、歴史の町として何とか観光客を呼び込もうとしています。
ところが、日本全国の行政が言う歴史というのはサムライ時代の話ばかりで、お城がどうだとか武将がどうだとか、そういうものにはお金をかけるわけで、時代祭りのような年間にしてわずか数日のイベントにはお金をかけるものの、明治以降の近代の歴史にはトンと興味がないところがほとんどです。

こういう偏った歴史観光ばかりが注目されるわけですが、お城だとか武将だとかという歴史になれば、今から作るわけにはいきませんから、京都や鎌倉、金沢や平泉などにかなうはずもなく、オリンピック選手に向かって、私もスポーツやってます的なことと同じように思えるのですが、固定観念と言いますか、第一お城や戦国武将で来ているお客様は顕在顧客であって、やらなければならないのは潜在顧客の開拓なのでありますから、地域にとって新しい名物などのコンテンツを作らなければならないのです。

ということで、さすが私の友人たちでありますから、「地域にとっては、今あるものをどうやって有効活用するかが求められる。」と私がいつも申し上げていることをよく理解していますので、このハチロクを何とか使えないかと頑張っているのであります。

佐倉市長のサンゴちゃん、何とか少しそういうところにも注力してくださいよ。
上越市長のカンタさんは、通年観光のコンテンツとして鉄道は使えると言ってくれています。
上杉謙信の上越市でも新しい観光の開発をしているのですから、佐倉は全国的に見て観光政策という点ではまだまだ小学校低学年レベルです。

確かに順天堂発祥の地ですが、「東の長崎」とか言ってたら、長崎の人に腹を抱えて笑われますよ。
私なら「西武池袋線ですか?」と聞きなおしてしまいます。

そうそう、小学校低学年と言えば、私が総武本線で蒸気機関車を見たのも小学校の低学年の頃でしたが、そのころはD51、C57、C58、ハチロクと4つの形式の機関車が走っていまして、ハチロクだけはラクダさんの背中のコブが2つ。その他はコブが1つの機関車ということで、形式はわからずともハチロクだけは見分けがついたのであります。

そして、そんなガキがすでに還暦過ぎのお爺さんになっているんですから、このハチロクをどう活用するかも時間の問題なのです。

ちなみに佐倉に保存されている58683号機は大正11年製造。
ことしでちょうど100年なのです。

すごいでしょう?

皆さんの町に100年の物っていくつありますか?

そう思うと、大切にしないとバチが当たるというものです。

50年前のハチロクの引く貨物列車と50年前の佐倉機関区。

鉄道は通年観光のツールになるということを、私は今、トキめき鉄道で仮説を立てて実証しているのであります。