どっちでもいいんです。

世の中には目からうろこと言いますか、人生の転機と言いますか、それまでの自分の考え方が180度と言わないまでも、大きく変わる瞬間というのが、人生の中でも数回ぐらいはあるものです。

今まで自分が考えてきたことが、もろくも崩れ去る瞬間と言いますか、いったいなんだったんだろうと思えるような瞬間です。

 

実は私にも過去に数回そういう経験があるのですが、そんな経験のひとつを、なんとなくふと思い出しましたので、今夜は書いてみようと思います。

 

もうかれこれ30年も前の20代の頃の話ですが、私は大韓航空に入社しました。

念願かなって航空会社に入って、張り切っていた時のことです。

 

新入社員教育で同期の仲間たちと一緒に成田の支店長から教育を受けていた時のことです。仲間の一人が質問しました。

 

「あの、すみません、ひとつお聞きしたいのですが、大韓航空という会社の呼び方ですが、『だいかん航空』なのでしょうか。それとも『たいかん航空』なのでしょうか?」

 

確かに会社に入ってみると、スタッフはどちらの呼び方もしていましたので、私も含めて他の同期の仲間たちも同じことを考えていました。自分の会社の名前ぐらいきちんと覚えておきたいという気持ちがありましたから、支店長が何て答えるのか、みんなで興味津々でした。

すると、支店長はこともあろうに、「どっちでも良いですよ。」と答えられたのです。

 

みんなあっけにとられました。

正式な社名ですから、正式な呼び名があるはずなのに、それを責任者が「どっちでも良い」というのは、いったいどういうことなのでしょうか。

私が20代の時ですから、支店長は当時50代で、ふつうの支店長とちがって成田空港の支店長というのは本社の理事で、特別に偉い人でした。当時の50代というのは昭和ひとけた生まれで、中学生ぐらいまでは当然日本の教育を受けていますから、日本語は母国語と同じ。知らない人が彼と話をしていたら、韓国人と思うことはないだろうというぐらい、ふつうの日本人のおじさんでした。私たちの親の世代のふつうのおじさんです。

その彼の口から、もちろん日本語で、「まあ、どっちでもいいですよ。」と言うのですから、我々は驚きました。

どのぐらい驚いたかと言うと、たったそれだけのことを30年経った今でも覚えているのですから、そのぐらい驚いたのです。

 

その日が終わって、ロッカールームの中で、質問した同期君が言いました。

 

「お前、信じられるか? 自分の会社の読み方をどっちでもいいなんて、ありえないよな。なんて民族なんだ。」

 

まあ、確かに彼の言うことはよく理解できます。

私たちが受けてきた日本の教育というものは、言葉の細かいところまできちんと読み書きすることを求められましたし、例えば私の名前は「鳥塚」ですが、「とりづか」であって、「とりつか」ではありません。ましてや「とりずか」ではない。

日本人なら言葉の意味や成り立ちを考えて、そういうところをきちんとするように先生からも親からも教わってきているのです。

でも、韓国人に言わせたら、自分の会社の読み方をどちらでも良いというのですから、正直言って私にも衝撃でした。

 

当時の大韓航空は、ソ連のミグ戦闘機から撃墜されたり、北朝鮮の女スパイに爆破されたりと、かなりスキャンダラスな会社でしたので、私も就職が決まった時に親戚から「大丈夫なのか? その会社は。」といろいろ言われました。韓流ブームなどというものが起こるかなり以前の時代ですから、日本人の誰もが、どちらかというと韓国という国を低く見ていた時代でした。

同期君が、「なんて民族なんだ。」と言ったのも、こういうところからだったと思います。

 

でも、私は支店長の口から直接、「どっちでもいいんだ。」という言葉を聞いたとき、なんだかとても感心して、うれしくなったというか、ある意味共感したというか、「韓国人ってすごいなあ」と思ったのです。

なぜなら、自分の会社の名前を「どっちでもいい。」などという考えは、日本人は絶対に理解できないけど、それを韓国人は理解していたのですからね。

私はつかえていたものがスッと落ちる思いがしました。

 

それまでの私の人生は、だいたい「鳥塚」という苗字は珍しい苗字ですからなかなか正しく読んでもらえない。

下の「亮」という読み方も「あきら」と呼んでもらえることはあまりありません。

鳥塚じゃなくて、鳥飼さんとか、鳥海さんとか、あるいは鳥越さんとか呼ばれることもよくありました。

下の名前も、「りょう」と呼ばれるならまだ良い方で、「とおる」だったり「まこと」だったり。

つまり、「とりがいまことさん」、なんて呼ばれることだってあるんですが、それが子供のころからどうも気に入らなかったんです。

でも、支店長の口から「どっちでもいいです。」と聞いた瞬間に、私はなんだか今までの人生でつかえていたものが取れた気がしました。

それ以降の私は、鳥飼だろうが鳥海だろうが鳥越だろうが、相手が私のことを呼んでいるのであれば、「はい」と返事をするようになりました。名前なんで一つの符号のようなものですから、自分のことを呼んでいるということがわかればそれで良いわけですからね。

 

日本語というのは50音で表される言葉ですが、中間音というのはあまりありません。日本人は中間音の発音ができない人が多いですね。最近では鼻濁音すらきちんと発音できていない。「お」と「を」の区別すらできない人が多くなりました。

では、外国語はどうかと言うと、英語で猿のことを「モンキー」だと思っている人が多いですが、じつは「モ」と「マ」の中間音で、カタカナで表現するとすれば「マンキ」が一番近い音になりますが、日本人には表現できません。英語でお金のことを「マネー」というと思っている人が多いと思いますが、マネーの「ネー」は「ネ」よりも「ニ」に近い音ですから、お金をカタカナで表現すると「マニ」が正しい音なのですが、これも日本人にはできません。後ろを伸ばすのか伸ばさないかを含めて、50音で表現しようとするところに無理があります。

大韓航空は韓国語では「ていはんはんごん」ですが、「て」と「で」の中間音ですから、「でいはんはんごん」の方が表記としては近いかもしれません。ましてや韓国語はフランス語で言うところのリエゾンがありますから、前後の言葉が連続して発音されます。大韓航空は「でい(大)はん(韓)はん(航)ごん(空)」ですが、実際の発音は「ではなんごん」になります。だから、「だいかんこうくう」でも「たいかんこうくう」でもどちらでも良いわけで、つまり、日本人は何でもかんでもかなで表現しようとしているところが、そもそも間違っているのです。

 

この時を境に、私は物事にあまりこだわらなくなりました。

当時はバブルの時代ですから、例えば雑誌の特集でも「男のこだわりのカバン」とか「こだわりの酒」などという特集が多くあったり、「道具にこだわる」など、男というものは物事にこだわることが美化されていた時代でしたが、いろいろ勉強してみると、物事にこだわるという思考回路は、精神構造から言うとかなり低いというか幼稚なのではないかということもわかってきたので、つまりこだわらなくなることが解脱でありますから、私は、「とりづか」でも「とりつか」でも、あるいは鳥越でも鳥飼でも、自分のことだとわかれば別に何と呼ばれてもよくなりましたし、時計だとか靴だとスーツだとか、そういう「もの」にも一切こだわらなくなったのです。

 

当時はバブルの時代です。

みんなこぞってイタリア製のスーツや靴が良いと言っていた時代です。

でも、私は結婚が早かったので航空会社に入った段階ですでに2人の子持ちでしたから生活に追われていて、そういうこだわりの世の中に合わせるなど私には無理だったのです。でも20代ですから周りを見てうらやましいと思う時だってありました。そういう自分が、支店長が「どっちでもいいです。」といった瞬間に、それまでの悩みから解き放たれたのです。

 

日本人は、「きちんとしなければならない」とか、「ことばの使い方が正しくない。」などとよく言いますが、そういう国民って、もしかしたら壁にぶつかったら解決する方法を見つけるのに難儀するのではないでしょうか。

そういう時に、「別にどっちだっていいんじゃないの。」と考えることができれば、もしかしたらもう少し楽に解決できるかもしれない。

何となく、昨今の日本人を見ていて、私はそんなことを思うのであります。

 

ただ、韓国人もきっと変わってしまったと思いますよ。何しろ昭和ひとけたが多かった時代と今とでは、言ってることもやってることもだいぶおかしくなってきていますから、彼ら自身が袋小路に入って行ってるような気がします。

 

そういう時は、やはり先人たちの知恵を思い出してみる必要があるのではないでしょうか。

 

まあ、どっちでも良いけどね。

 

ちなみに私はネクタイだけはこだわりを持っていて、いつもイタリア製なんです。

その理由は、日本製だと長さが足りないから。

デブになって、首も太くなって腹も出てくると、長さが必要になりますから、そういう時は外国製なら寸足らずになりませんからね。

これはこだわりと言うよりも、必要に迫られて、なんですけどね。