昭和の残照 その2 「ある日曜日」

時間があるときに子供の頃に写した膨大なネガをひも解いています。
スキャナーにかけると結構時間がかかるもので、写っている物を確認しながら36枚撮り1本をスキャンすると1時間以上が経過しています。
そして、不思議なもので、スキャンした画像をパソコンで見ると、40数年の時間があっという間によみがえると言いますか、つい昨日のことのように思い出されます。
いつも思うのですが、これは本当に不思議な現象で、昨日の昼飯に何を食べたか思い出せないというのに、40数年前のことが、ネガのスリーブを順番に見ていくと、その通りの順番で思い出してくるのです。
その時に吹いていた風を感じ、音なども聞こえてきそうなのですが、これがまさしく爺さんになったということなのでしょう。
でも、その同じ時代を別々なところで生きてきた人にとって見たら、やっぱり40年の歳月が瞬時によみがえるようで、いすみ鉄道応援団のメンバーで、日通カラーの三輪自動車を所有するMさんが、私のFACEBOOKの投稿に、こんな写真を送ってくれました。
その内容の一部をご紹介したいと思いますが、最新技術のFACEBOOKが、老人ホームの初等科のようになっているのが何とも笑えるのです。
まずは私の投稿から。

さあ、お待ちかねの昭和の時間がやってまいりました。
今夜は昭和の48年の小田急線、南新宿です。
南新宿駅が取り壊されていると聞いて、代々木の塾の帰りに新宿まで歩いてみました。
踏切の脇からの撮影です。
NSE車の「はこね」が走るカーブのところが旧南新宿駅。
取り壊し作業中です。
SE車「えのしま」の後ろに見えるのが新しい南新宿駅。
150mほど移動したようです。
新宿駅の改修工事に向けて、南新宿駅の位置が邪魔になったんでしょうね。
たったこれだけの距離に次の駅があったわけですから。
京王プラザができて2~3年だったと思います。
今よりもずっと大きく見えました。
この時代、皆様はどこで何をされていましたか?
もしかしたら、すれ違っていたかも。
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私がこう投稿すると、Mさんから早速返事が。


 おっ!小田急ですか。私の領域に入りましたね(笑)
旧南新宿駅が小田原方に移転したのは昭和48年12月ですので、取り壊しが始まったのは年が変わって昭和49年初頭だと思います。昭和48年度の年度末かな?さてその頃のわたくしはと言えば・・・小田急マニアしてました(笑)
画像は社長がNSE車を撮影したのとほぼ同じ場所ですね。こちらは昭和48年10月頃の撮影で移転する少し前です。


こちらは昭和48年1月頃に撮影した、南新宿駅の駅舎です。
当時は車がど真ん中に入ってしまって失敗写真だと思っていましたが、今となっては「ハコスカ」がいい味を出しています。

偶然にも今年の5月9日に、旧小田急本社ビル(現小田急南新宿ビル)を撮影した画像がありました。
社長はこの踏
切脇からSSE車を撮影していたんですね。

ついでに現在の駅跡は・・・ホームがあった場所には地下ホームからの線路が合流しています。
地下ホームを8両か
ら10両ホームにしたためですね。
社長が撮影したNSE
車と同じカラーのLSE車が健在なのはうれしいです。
2
016-05-09 コンデジで撮影

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このカラー写真の踏切の左端で、昭和49年(1974年)1月に私が上から3枚目の「えのしま」SE車を撮影したんですね。
そして2枚目の「はこね」のNSE車を撮ったところが、下のカラー写真ということになります。
すると名古屋にお住いのTさんが、

「中学2年生、まだ名古屋に住んでいた頃です、この年に兄貴と二人で急行『桜島・高千穂』に乗って東京に遊びにきた年です
それから11年後に、半年とは言えN6、HE等 のハンドルを握るとは夢にも思いませんでした。
小田急電鉄さまには大変お世話になりました‼」
と、コメントしました。
Tさんは「桜島・高千穂」に乗って東京に遊びにいらしたことがあるようです。
するとMさんが、こんな写真をUPしました。

SGモクモクの桜島・高千穂号です。
SGというのは蒸気発生装置で、当時の列車は機関車から供給される蒸気で暖房していたんです。
蒸気機関車の名残ですが、電気機関車もこのSGを搭載して、蒸気をモクモク吐き出して走行していたんですね。
私の「SGモクモク」というコメントに対して、Mさんは、
「SG」わかるかなぁ・・・。今の人がみたら煙が出ているって通報されてしまうかも・・・
と返してくれました。
分かる人には分かるお話ですね。
だから老人ホーム初等科なのです。
でもって、「桜島・高千穂」というのは東京から鹿児島まで24時間以上かけて走る急行列車で、確か昭和49年に廃止されていて、私も乗った記憶がありますから、このあたりのネガを探せばたぶん出てくると思って、スキャンしてみたら、やっぱりありました。


SGモクモクのゴハチです。
東京駅で機関車を反対側に付け替える作業中。
客車はナハ10だと思います。
電気機関車だって、煙をモクモクはいて走るんだぞ、の図です。
そうしたら、同じネガの次のカットはこの写真。

▲昭和49年1月の国鉄板橋駅です。
赤羽線の電車は101系。
多分、SGモクモクの次の日曜日だと思いますが、私は赤羽線に乗っていました。
▲赤羽線の終点は赤羽駅。左に見える車止めが終点の証拠です。
当時は赤羽線(今の埼京線)も東北本線も地表ホームで、京浜東北線だけが高架ホームでした。

▲その京浜東北線の高架ホームに上がってみると、EF65に引かれた臨時の特急列車が猛スピードで通過していきました。
14系客車ですから、特急列車だと思います。
シャッタースピードなどコントロールできるカメラではありませんでしたから、ブレブレです。
このホームから京浜東北線の103系電車に乗りました。


▲ついたところは大宮駅です。
長編成のヨンパーゴが到着。
その向こうは東武の電車です。ドア間の窓が3枚ですから何系かわかりますよね。

▲ボンネットもやってきました。特急列車が風格があった時代です。


▲こちらは183系「とき」ですね。まだピカピカでした。

▲でも、私は華やかな特急列車よりも、どちらかというとこういう車両が好きだったんですね。
▼その証拠にこんなアングルも撮影しています。中学1年生が撮るアングルか? と思うでしょう。

▲車両の隙間に見える雑誌を読んでいるおじさん。
生きていれば80近いでしょうね。
何しろ42年が経過しておりますから。
当時30代後半であれば今は80歳です。

▲でもって、こういう列車も見逃しておりませんよ。
川越線のキハ35,2連です。
1年半前に外房電化が完成し、この翌年には銚子まで電化され、気動車がどんどん珍しくなっていった時代です。
勝浦方面で何度も乗車したキハ35が、こちらへ転属していたので、気になって写しました。
そして大宮からは上野まで、上りの急行「八甲田」に乗車。
旧型客車の列車の最後部デッキに乗車しました。
寒風吹きすさぶ開けっ放しのデッキから後面展望です。

▲王子を出て京浜東北線と分離するあたり。


▲尾久通過。
上の写真をよく見ると20系と583系が。下の写真にはひさしのゴハチが写っています。
ちなみに、尾久は東京の人は「おぐ」と言います。「ぐ」は鼻濁音の「ンぐ」ですが、駅名だと「おく」ですね。

▲西日暮里。
まだできて間もないころの西日暮里。ホームは特急列車や急行列車の名撮影地でした。
新幹線の線路など影も形もありません。


▲日暮里通過。
日暮里駅は東北線の列車ホームがありました。
山手線から常磐線へ渡る跨線橋にもそのホームへ降りる階段がありましたが、この写真を見ると、ホームの撤去作業中ですね。
このホームがあったおかげで、そのスペースを利用して、新幹線のトンネル出口ができたのです。


▲そして上野駅到着。
低いホームへ入線していきます。
このコマがちょうど36枚目。
ネガはここで終わっています。
もう少しフィルムがあれば、上野駅に到着した急行「八甲田」の写真も撮っていたかもしれませんが、残念です。
当時は、シャッターを切るときは考えながら撮っていましたね。
これは、中学1年生の私が撮影した、昭和49年1月の「ある日曜日」でございます。
昭和の人も平成生まれの人も、お付き合いいただきましてありがとうございました。
とんでもない中坊だったということです。
何しろ、当時は薩摩藩の島津の殿様でしたから。
わかります?
「忠則」ですよ。
「タダノリ。」
お後がよろしいようで。