昨日はいすみ鉄道の前身である国鉄木原線の時刻表を読み解いてみましたが、現在第3セクター鉄道として走っている路線の中からいくつかをピックアップして、国鉄時代当時の輸送がどうであったかを検証してみたいと思います。
国鉄の特定地方交通線を引き継いだ第3セクター鉄道が今でも30数路線頑張って走っていますが、その中から私と同じ公募社長さんたちが奮闘する各地の第3セクター鉄道は今から40年前はどういう輸送だったのかを見てみることにしましょう。
春田社長さんががんばる秋田県の由利高原鉄道の前身、国鉄矢島線の昭和48年の時刻表です。
当時は1日7往復の運転ですね。
私が乗車したのはC11が廃止された後の昭和49年でしたが、羽越線の急行「しらゆき」から乗り継いだ333Dの羽後矢島行はキハ10系の2両編成でした。
C11はすでに引退していましたが、貨物列車は健在で、日中DE10が矢島まで貨物を引いてきているのを見ることができました。
このダイヤでしたら1編成の列車が行ったり来たりするだけですから、途中駅での交換設備もいらないと思います。
由利高原鉄道に転換されてから列車を増発しましたので、前郷駅ですれ違い設備を復活させたようです。現在でも1日14往復の列車が運転され、前郷駅での列車の行き違いが行われていますから、国鉄時代に比べるとはるかに便利になっていることがわかります。
当時の矢島駅には車両基地はありませんでしたから、矢島線の列車は秋田の車庫から出てきていたのでしょう。最終の334Dが羽後本荘から秋田まで乗り入れています。
始発の321Dは、おそらく秋田の車両基地を早朝に出て、羽後本荘までは回送で来ていたものと思われます。
この写真の列車は326Dが羽後本荘に到着したところ。朝の輸送を終えたキハ22を先頭にした4両編成です。
編成を記録していませんが、写真を見る限り、キハ22+キハ17+キハ20+キハ28のように見えます。千葉の列車に引けを取らない見事な凸凹編成ですね。
往路に乗った最終列車の333Dは2両編成でしたが、時間帯によってはこのような列車も走っていたということですね。
通学輸送の需要が多かったことがうかがえます。
時刻表を見ると、この326Dが9:45に羽後本荘に到着してから折り返しの327Dまで4時間近く列車がありません。
4時間も羽後本荘に止めておくとは思われませんし、夜に乗った列車は2両編成だったことを考えると、朝の輸送を終えた長編成を回送列車として基地へ送り返し、この昼の時間帯に夕方輸送用の2両編成に入れ替えていた可能性もありますね。
矢島線に4両編成が入っていたということは、国鉄時代には、列車本数は少ないものの、乗客は多かったこということです。
昭和48年と言えば地方都市で自動車が普及し始めたころでしたが、まだまだ一人1台というところまでは行ってませんでしたし、バスは集落から駅を結ぶような鉄道を補完する役割が主で、鉄道と並行して地域間輸送を行うところまでは発達していませんでしたから、地方の町では、少ない本数の列車の運転時刻に合わせて生活をするというライフスタイルだったのだと思います。
さて次は山形鉄道「フラワー長井線」の旧国鉄長井線です。
長井線の時刻表では、今泉から米坂線へ乗り入れる列車が数本設定されています。
これを見る限りでは、長井方面から米沢への通勤通学輸送というのが大きなウエイトを占めているのがわかります。
線路の形態も現在でも一部区間を米坂線と共用しているのを見てもわかるとおり、長井線と米坂線は一体運用してこそ本来の輸送需要に応えられるのだということが、当時からわかるのですが、大人の事情で分離されて会社が変わってしまいましたので、利用者は今泉で乗り換えを強いられることになってしまったと思われます。
この辺の事情を以前に野村社長からお聴きした時に、「だったら米沢まで乗り入れちゃえばいいじゃないですか。車両設備もJRに入れる構造なんだし、米坂線の利便性も向上しますよ。」と申し上げたことがありますが、とうとう実現しないまま、野村社長も山形鉄道を卒業されてしまったのが残念です。(山形鉄道については、新しい経営方式が導入されるということが発表されましたので、孤軍奮闘してそこまで導いた野村社長の大きな功績が評価されると思います。)
話を時刻表に戻しますが、米沢を6:43に出る米坂線の143Dが今泉で223Dを後部併結しています。(なぜ後部併結かというと、米沢からの143Dが先に今泉に到着し、8分後に赤湯からの223Dが到着しているからです。)
この223Dが今泉から長井まで2編成で運転されて、長井で後部併結した赤湯からの編成を切り離して、前の方の米沢からの車両が荒砥まで行くようです。
長井で編成を切り離しているということは、時間帯から考えて、長井までの通勤通学輸送が多かったということがわかりますし、切り離した車両を144Dとして米沢へ向かわせているのも、今泉方面への需要が多かったことが、時刻表を見るだけでよく理解できます。
電車には中間車という運転台が付いてない車両がたくさんありますが、普通列車に使用するディーゼルカーは、ほぼどの車両にも片側かあるいは両側に運転台が付いているのは、このように途中駅で連結したり分割したりする用途が多かったからで、これが当時の地方都市の輸送実態でした。
切り離した223Dは長井から144Dとなって米沢に向かいますし、荒砥まで行った編成は折り返し226Dとなって赤湯から先、山形まで直通しています。
つまり、列車の編成をうまく入れ替えているのがわかりますが、おそらく車両基地がある米沢か山形へ引き上げる必要があるために、こういう運用をしているのでしょう。国鉄時代の車両のやりくりって、意外と細かくやっていたのだということが時刻表から見てわかるのが面白いと思います。
ちなみに山形鉄道は現在終着駅の荒砥に車両基地があり、1日12往復の列車が全線を通して運転されていますので、国鉄時代当時から比べると、利用しやすいダイヤになっていますが、「フラワー長井線」の時刻表を見ると、今でも列車番号は200番台に設定されているのが当時の名残を感じるところです。
最後は山田社長さんが奮闘する鳥取県の若桜鉄道です。
前身は国鉄若桜線ですが、この路線は大変特徴的な列車の走り方をしています。
それは、早朝にグリーン車を連結した列車があるということです。
鳥取駅を4:26に出る331Dは、何とグリーン車が連結されています。この理由は、車両が不足する朝の輸送時間帯には、山陰本線で京都や大阪へ行く急行列車に使用する列車編成を、間合い運用で使っていたからです。でも、グリーン車を連結した山陰本線の当時の急行列車は6~7両編成ですから、朝の輸送に急行編成を使用するということはそれだけお客様がいたということで、時刻表にはそれがよく表れていることになりまります。
終着駅の若桜駅はホーム1線だけの折り返し駅で、2編成の旅客列車が停車できる駅ではありません。331Dが5:20に若桜に到着しますが、次に鳥取方面から来る333Dの到着は8時ちょうど。その333Dの到着までの間に鳥取行の330Dと332Dの2本の列車が出ているということは、昨日ご紹介した旧木原線の上総中野駅のように、折り返し時間で列車を分割していたということになります。
若桜線の場合は、長編成でやってきた331Dを7分というわずかな折り返し時間で編成を分割し、(これは想像ですが、)鳥取方2両を330Dとして先に出し、グリーン車を連結した4~5両の編成を332Dとして通学時間帯の列車に当てていたのだと思います。
上り初列車の330Dが鳥取から送り込まれているのを見ると、最終の341Dは22:03に若桜駅に到着すると、翌朝の一番列車になることなく、そのまま回送列車で鳥取に戻されていたのでしょう。当時の鳥取駅は夜行列車が何本も走っていて不夜城のような所でしたから、距離的に見ても、若桜で乗務員と車両を停泊させることはせずに、鳥取に戻して有効活用していたと思われます。
さて、もう一つこの若桜線で興味を引くのは日中1往復と夕方1往復の客車列車があること。
この春復活運転したC12が若桜鉄道の看板娘ですが、当時はそのC12はすでに引退していたようですが、DE10あたりがけん引する客車列車が残っていました。
朝、グリーン車を連結するほど混雑する路線ですから、夕方の1往復は他の路線で見られたように、先頭の機関車が動力を持たない客車を長く繋いで輸送を行っていたことが理解できますが、昼間に1往復客車列車が入っているのが気になりますね。
おそらくこの日中の1往復の客車列車は、時間帯から言って貨物を取り扱える時間ですから、貨車を連結した混合列車だったかもしれませんし、客車に荷物車両を組み込んだ編成だったかもしれません。
国鉄時代の閑散線区では貨物列車を1本走らせるほどの需要がなく、客車列車に貨車を連結した混合列車が、昼間、途中駅で貨物の取り扱いをしながら走っていた路線が全国にたくさんありましたが、ここでもそういう貨物や荷物の取り扱いがあったのかもしれません。
詳しい資料がありませんが、時刻表を見ると、因幡船岡、八東、丹比と、交換列車がないのに長く停車していることがわかります。帰りも同様ですから、各駅で貨物の積み下ろし、あるいは貨車の切り離しが行われていたか、あるいは、それができるように時間に余裕があるダイヤだった可能性があります。今見ても、丹比、八東、隼駅などには構内の敷地に貨物を取り扱っていたような名残が見られるのがそれを物語っています。
若桜線の貨物列車については機芸出版社のシーナリーガイドに出ていたと記憶していますので、ご興味がある方は探してみてください。
さて、以上が今第3セクター鉄道として活躍している路線の国鉄時代の時刻表の私なりの読解です。
時刻表を見て、こういうことを考えるということは、興味のない人にとって見れば理解不能なことだと思いますが、私にとっては「いろはのい」であり、基礎中の基礎なわけです。
基礎中の基礎というのは一朝一夕でできることではないということで、私の場合は小学校4年生のころから時刻表を読み始め、中学1年生の時にはこういう読み方をしていたわけですから、45年も前にスタートしていたことになりますが、でもそれは私だけではなくて、私たち公募の社長全員に言えることですから、会って話をするときは、こういう基礎があることが前提で情報交換をしています。
ローカル線の再生に取り組んでいる公募社長たちは、少なくとも全国の地方路線の輸送実態について、時刻表を見ただけでこれだけの考察をするスキルを持ち合わせているということであり、それは基本、基礎ですから一朝一夕で身に着けたものではありません。そして、その上で、「どうしたら地域にとって一番良いか。」ということを日夜考えていることをご理解いただきたいと思います。
ここでご紹介した時刻表を見てもわかるとおり、それぞれの地域にはそれぞれの地域の交通事情があります。でも、それは、その地域だけを見ていたのでは解決しません。全国の他の地域で、どのような地域輸送が行われているかを知れば、そこに解決策が見えてくるのです。
だから、担当者が行き詰まり、周囲の人たちが「絶対に無理だよ。」と太鼓判を押している中で、「いや、解決策はあるはずだ。」と公募社長たちは考えて手を挙げたわけで、その証拠に、どの路線でも、ここ数年である程度の明るい兆しや、地域にとっての鉄道の新しい使い方が顕著になってきているわけです。
学生時代にろくに勉強もせずに(これは私だけですが)、毎日毎日時刻表を読みふけり、各駅停車で全国を旅行していたことが、それぞれの社長さんたちの血となり肉となって、今、地域鉄道が少しずつ元気になってきているということでしょう。
時刻表を読み解くということは、そういうことなのです。
皆様には地域で頑張っている地域鉄道をどうぞ大切にして、応援していただきたいと切に思うのであります。
なぜなら、ローカル線というのは単なる高校生やお年寄りの足ではなくて、ローカル線をうまく使うことが地域を元気にする一番手っ取り早いやり方だということだからです。
(おわり)
最近のコメント