同じ釜の飯

「同じ釜の飯を食う仲」という言葉があります。
生活を共にして、苦楽を分かち合った仲間の連帯を表す意味の言葉ですね。
ご飯の話で恐縮ですが、今から40年以上前の私が子どもの頃、ご飯というのは様々な特徴がありました。
食卓に並ぶおかずや、食堂で食べる定食類は、今よりも種類も量も少なかったのは事実ですし、例えば友達の家に呼ばれてご飯を食べる時などは、たいそう驚いたものです。味噌汁の味が違っていたり、醤油が違っていたり、お料理の味付けそのものが、その家のお母さんがどの地方の出身かで、家々のごはんの味が違っているのがふつうでしたが、それが東京出身の母の我が家ではとても驚きだったんです。
旅行へ出かけてもそうですね。
その頃は蒸気機関車がまだ走っていましたから、その蒸気機関車の写真を撮りにいろいろなところに出かけます。行った先で、例えば立ち食いソバなどを食べるとしても、いろいろな味がありましたし、味だけじゃなくて、名称そのものが違う場合もあります。西日本へ出かけて「かやくうどん」などというものに出会っても、目の前に出てくるまでは、いったいどんなうどんが出てくるかわかりませんでした。
かつ丼だって同じで、今でこそソースかつ丼や、カツ煮丼などというものが知れ渡るようになりましたが、40年も前の時代は、東京のカツ丼を想像して注文すると、とんでもない物が出てくることがありました。
大阪へ行けば「トルコライス」なるメニューがあって、何が出てくるか全く想像できず、かと言って、旅の予算が限られている中で、あてずっぽうに頼むわけにもいきませんから、大変困った記憶があります。
これが昔の日本の食生活でしたが、その頃から出始めたマクドナルドなどのファストフードは、基本的には日本全国どこへ行っても同じ名前、同じ味、そして同じ値段で食事ができますから、コンビニなどない時代には大変ありがたい存在でした。
限られた小遣いをためて旅行に来ている中学生にとっては、いつもと同じ金額で、いつもと同じ量の、いつもと同じ味が得られれば、それで十分だったのです。
マクドナルドの展開は、まず東京の中心部から始まり、徐々に地方へと広がっていった記憶がありますが、中学生の時、代々木の塾の帰りにお腹が減って我慢できずにかじりついたハンバーガーが何とおいしかったこと。それが、高校生、大学生となるにつれて、全国どこへ行ってもマクドナルドの味が同じ値段で食べられるのですから、とりあえず旅先で食べ物に不安を抱くということはなくなりました。
同じように、ふだんの生活でも、マクドナルドのようなファストフードは、子供から大人まで、貧乏人も金持ちも、田舎の人も都会の人も同じものを食べるという点で、食におけるスタンダードが出来上がっていったのが昭和50年代だと思います。
その当時は、まだ金持ちしか入れないようなお店(入口にサンプルや値段が出ていないお店)や、いくら安くてもちょっと入りたくないような貧乏人専用のお店がたくさんあって、簡単に言えば、その時の懐具合に合わせて店を選ぶだけじゃなくて、その人の生活レベルに合わせて店を選んでいた時代でしたから、値段の心配をせずに、皆で同じものが食べられるファストフード店は本当にありがたい存在でした。
(コンビニもファミレスも、ほとんどなかった時代には、食堂へ入るにも勇気がいる冒険だったのです。)
それから30年が経過した現在、人々の食べ物に対する価値観や感覚も多様化してきました。「安い、早い、うまい」というだけでなく、いったいどこ産の原材料を使っているのだろうかとか、フェアトレードした材料なのだろうかなど、消費者がいろいろ考えるようになってきて、マクドナルドは苦境に立たされるようになりました。
これは、マクドナルドだけではなく、牛丼などすべてのファストフード業界や居酒屋業界までもが直面している問題で、メニューを高級化、高価格化して解決できるわけでもなく、別ブランドの系列店を立ち上げて解決できるでもない深刻な閉塞感にさいなまれているのが業界の現状です。
つまり、国民全体のスタンダードが上がってきた中で、どこで食べても同じ品質、同じ価格、同じ名前では勝負できなくなってきているんですね。
でも、私はふと考えるんです。
マクドナルドは、もしかしたら私たちにとっては「同じ釜の飯」なのではないかと。
東京と大阪など、まったく別々のところで育った人間でも、子どもの頃、部活の帰りや塾の帰りに食べたマクドナルドのポテトの味は、きっとみんな同じで、みんな忘れられないおいしい思い出があるはずで、そういう思い出を共有できているということは、同じ釜の飯を食った仲と言えるのであり、初めてあった知らない者同士でも、連帯感や共通の価値観を地域や世代を超えて分かち合えるのではないか。それが、マクドナルドが果たしてきた大きな功績なんじゃないかと思うのです。
そして、このマクドナルドは、世界共通ですから、そういう同じ釜の飯を、結果として世界中の人たちが食べていて、お金はなかったけど将来への希望に燃えていた若い時代に食べたポテトの味は、国を越えて共通のものがあるはずで、そういう世界共通の価値観を持てるようになったのは、私はマクドナルドの功績だと思うのです。
50も半ばになり、フライドポテトの臭いをかぐと気持ち悪くなる時もあるようになりました。だから、マクドナルドにもほとんど足を運ばなくなりましたが、そういう今でも、子供のころに食べたフライドポテトの味は美味しかったなあと思い出します。
今、マクドナルドが世界中で危機にあると言われています。
コストと戦いながら世界共通の味を出すためには、大量生産、冷凍保存など、昨今の食に敏感な人から見たら「あり得ない」生産方式かもしれません。作り置きできない商品ですから、廃棄の量も多くなり、そういうことが許されなくなってきている時代かもしれません。
でも、それは、私たちの食に関するスタンダードが上がったということの表れでありますから、最初のスタンダードを作ったマクドナルドが教えてくれたことなんですね。
世界の人々を「同じ釜の飯を食った仲間」にしてくれたマクドナルドに対し、私は世界中の人が、まず感謝の気持ちを持つことが、大切なのではないかと思います。
皆さん、今こそマクドナルドに感謝してみませんか?
かと言って、毎日マクドナルドのメニューを食べる気にはなれませんが、でも、やっぱり、私は、あの頃のハンバーガーやポテトの味を思い出すと、マクドナルドに感謝したい気持ちになるのです。
世界で今現在戦争をやっているところって、マクドナルドがあまりないところのような気がするのは、気のせいじゃないと思います。
世界中が同じ釜の飯を食った仲間になれれば、戦争なんて起きないのですから。
マクドナルド、ありがとう。
何とか知恵を出し合って、この苦境をしのいでいただきたいと願っています。