山陰本線824列車

おとといは私の大好きな宮崎県の日豊本線の話をしました。
電化前の日豊本線は、今、JR東日本で復活したC6120をはじめとする大型蒸機機関車がたくさん走っていて、それはそれは、東京の少年にとっては憧れの場所でした。
だから、中学生だった私は、時刻表を見ては、妄想ばかりの毎日だったわけですが、私にとって憧れの場所と言えば山陰本線もその一つ。私は山陰本線が大好きで、日豊本線と並んで憧れの対象でした。
この間、山陰中央新報という新聞の取材を受けたんですが、その時に「山陰本線は大好きなんですよ。」と申し上げて、「ひがしはぎ、こしがはま、ながとおおい、なご、きよ、うたごう、すさ、えざき、いいのうら、とだこはま、ますだ、いわみつだ、かまて、おかみ、みほみすみ、おりい、すふ、にしはまだ、はまだ」なんて空で駅名を申し上げたところ、記者さんに大感激していただきました。
「駅名を覚えているんですか?」と記者さんが不思議そうに聞きますので、私は「だって、毎日時刻表ばかり見ていたら、そりゃ、覚えちゃいますよ。」と答えましたが、40年以上前におぼえたことが、今でもさらさら出てくるのですから、不思議ですね。
でも、その後、JRになってから新駅がいくつもできたり、駅名が変わったりして、それが覚えられないのです。
私の頭の中は、「くて、はね、たぎ、おだ、こうなん、ちいみや、いずもし」なのですが、実際には、「久手、波根、田儀、小田、江南、出雲神西(新駅)、西出雲(知井宮から改称)、出雲市」になっています。
でも、それを頭の中で書き換えることはできないんですね。
言うなればテキストがPDF化されてしまったような感じです。
さて、その山陰本線で一番気になっていたのが本日のタイトルにある824列車。
北九州の門司から山陰本線経由で福知山まで、ほぼ丸1日かけて走り続ける各駅停車です。
それでは、先日の1973年5月号の時刻表からこの列車をピックアップしてみましょう。

山陰本線の下関口(門司→出雲市)の上り時刻表です。
良く見えないと思いますので分割してみましょう。

門司を5:22に発車する824列車は列車番号にDもMも付いていませんから機関車がけん引する列車であることがわかります。
この列車は次の下関で11分停車。
後続の840列車もわずか一駅しか走っていないのに下関で6分停車しています。
これは、関門海底トンネルをくぐるために専用の機関車が付けられていて、下関で機関車の交換が行われていたことを示していますが、山陰本線は電化されていませんから、1973年当時の下関で交換する機関車はディーゼル機関車か蒸気機関車ということになります。私が実際にこの824列車に乗車した時(1974年3月)は牽引機はDF50でしたが、D51じゃなかったので、長い客車の編成の一番後ろに乗車しました。
SLの列車に乗る場合は必ず一番前の客車に乗るのですが、この時、なぜ一番後ろの客車に乗ったかというと、この時間帯の山陰本線の長門市―下関間は、通勤通学輸送用に下関へ向かう列車が数多く走っていて、824列車が長門市までにすれ違う列車のうちの確か4本ぐらいがD51牽引だったので、交換する駅で対向列車の先頭の機関車が自分のすぐ横に来るように、一番後ろの客車に乗車したということです。
さて、この824列車は幡生から山陰本線に入るのですが、時刻表を見ると、吉見駅6:10発とあります。前の福江駅を出るのが6:02ですから福江―吉見間を8分かかっています。
ところが、その次の836Dはこの区間を4分で走っています。836Dは吉見止まりですから7:37は着時刻。ということは機関車が引く824列車は多少加速減速が悪くても5分もあれば吉見に着くはずですから、吉見駅の発車時刻が6:10ということは、6:07着、6:10発。つまり、吉見で3分停車して、反対側から来る下関方面への列車とすれ違うための待ち合わせをすることがわかります。
時刻表というのは数字を読み解いていく読み物であるというのはこういうところなんですが、下関方面への下り列車の時刻表を見てみると、長門市からの841列車が吉見を6:11発。この駅で841列車と交換することがわかります。(駅弁紹介も載せてみましたのでクリックしてご覧ください。)


さて、この時私が実際にこの824列車に乗車したのは東萩まででしたが、824列車は私が下りた後も走り続けます。
10:24に益田に到着して3分停車で10:27発。
ここからは下の時刻表をご覧ください。

浜田11:22着、江津11:56着、大田市12:59着、出雲市には13:50に到着です。
お昼ご飯の調達としては、益田の3分停車、浜田の6分停車あたりでしょうか。
駅弁は高かったので、このころの私は駅の立ち食いソバばかり。停車時間が十分でない時は容器代10円か20円を払って、車内にそばを持ち込むなんてこともやりました。
下の欄に境線の時刻表が掲載されていますが、朝2本、夕方1本客車列車があります。
これは通勤通学時間帯の輸送に対応するための客車列車で、気動車がまだまだ不足していた時代のダイヤ設定ですね。
一時的に需要が増える時間帯には安価な客車を増結して、それ以外の時間帯は1~2両の気動車で運転するスタイルは、国鉄からJRになっても2000年ぐらいまでは見られたような気がしますが、今度、機会がありましたらそのあたりも分析してみたいと思います。
ちなみにこの時の境線の客車列車は、まだC57牽引だったと思います。

さて、午前5時22分に門司を出て出雲市に13:50に到着した824列車は、15分間停車して14:05に出雲市発車。先ほどの解読法を使えば宍道で14:48の発車までしばらく停車していることがわかります。この停車はあとからやってくる博多からの特急「まつかぜ2号」に抜かれるためのもので、下関を3時間40分余り後の9:45に出た後続の「まつかぜ2号」がここで追いつくのです。
この「まつかぜ2号」は博多発新大阪行の全車指定、食堂車連結のキハ82系ディーゼル特急で、山陰本線で一番風格がある列車。博多を8:15に出て新大阪には21:17着という、これもまた気が遠くなるような列車ですね。
さて824列車は松江で後続の特急「やくも4号」に抜かれ、米子でやはり後続の急行「美保」に道を譲ります。
倉吉4分停車。当時は倉吉線が分岐していましたが、824列車は倉吉17:55発の西倉吉行429列車に接続しています。429列車はC11が引く貨客混合列車でしたから、隣のホームで発車に向けて石炭をくべて蒸気を上げてシューシュー言ってるC11を見ることができたでしょうね。
鳥取で20分停車。夕ご飯を調達するとしたら米子か鳥取ということになりそうです。

▲倉吉線、若桜線の時刻表。
倉吉線は打吹、西倉吉までのチョン行があるのが興味深いですね。
若桜線は朝、グリーン車連結の列車があったようです。
この話はまた後日しますね。

鳥取を19:15に出た824列車は浜坂20:40発。諸寄から浜坂まで30分かかっていますが、これも解読法を用いれば25分ほど停車していることがわかります。
この停車は浜坂20:23発の寝台特急「出雲」に追い越されるための停車のようで、この時期の「出雲」は浜田始発の東京行。浜田を15:15に出て東京には翌朝7:00に到着するダイヤで運転されていました。
824列車は豊岡で15分停車。米子や豊岡など、機関区がある駅で長時間停車するということは、機関車の交換があったかもしれませんが、D51、C57、DD51、DF50などの機関車が考えられますね。
豊岡の発車は22:20。和田山23:04。そして終着駅福知山には23:51の到着です。
門司から18時間半も走り続けた824列車。
当時は日本最長の鈍行列車と言われていたように記憶していますが、今走っていたら大人気でしょうね。
ブルートレインが廃止されて機関車が引く客車列車が全廃される日も近いと思いますが、機関車が引く客車列車で、窓を開けて風を感じながら延々と走り続ける旅を、若い人たちに経験させてあげたいなあと思うのであります。
ということで、私の大好きな山陰本線を走っていた長距離鈍行の妄想一人旅でしたが、時刻表の楽しみを少しはご理解いただけたでしょうか。
機関車牽引ではありませんが、昭和の国鉄形気動車が朝まで走り続けるいすみ鉄道の夜行列車。11月下旬の運転を予定しています。
【参考資料】
1974年3月の全日空時刻表から四国、中国地方便です。


YS11の運航便が多いですが、松山、高松、高知には大阪からこれだけの便数がありました。(徳島便は東亜国内航空の担当。)
このフリーケント・サービスを見てもおわかりいただけるように、大阪と四国の間は、当時すでに航空輸送が一般化してきていたことがわかります。
それに比べると山陰の方は、弱いですね。やはり鉄道中心の輸送が残っていたのだと思います。
時刻表を見比べて検証してみると興味深いと思いますが、時刻表を「読書する」ということがお分かりいただけるのではないかと思います。
ちなみに、繰り返しになりますが、私は当時中学1~2年生でございました。
時刻表に夢中で、いかに勉強していなかったか、ということも、お分かりいただけると思います。(笑)