リンゴの微笑み

飛び石連休の中日。
皆さんはいかがお過ごしでいらっしゃいますか?

さて、今夜は女性読者にご好評をいただいている連休恒例のプラトニックな官能小説のお時間です。

ごゆっくりどうぞ。

**********************

雪原を煙を吐いて走る汽車。

3日前の大雪で運転が危ぶまれたが、今日は予定通り走ってくれた。

毎年この時期になるとこの汽車に乗りに来る。

もう、20年になるかな。

いくら時間が経過しても、この景色とこの汽車は変わらない。

雪原の向こうにツルが飛んでいる。
タンチョウだ。
ツルが飛ぶ姿は優雅だなぁ。

優雅なタンチョウの姿を見てハッとした。

「しまった。忘れてた。」

急に思い出した。

今日はマンションの点検日だった。

“消防設備点検を行います。
お留守の場合は室内に立ち入らせていただくことがあります。”

数日前にそんな回覧がポストに入っていた。

お留守の場合って、お留守だよ。
北国で汽車に乗ってるんだから。

立ち入らせていただくっての、忘れてた。

部屋きれいにしてくるんだった。

掃除もしてない。

まぁ、別に見られてまずいものは無いけれど。

あっ、あった!

見られてまずいもの。

あれだよ、あれ。

リンゴのお姉さんのポスター。

寝室にデカデカと飾ってある。

ボ~ッ!

汽車は凍てついた川の流れを見ながら走っていく。

その川の流れにリンゴのお姉さんが映ったような気がした。

まぁ、いいか。
今さら仕方ない。

ていうか、今時リンゴのお姉さんの写真が飾ってあるなんて、若い人の部屋じゃないことは確かだ。
見る人が見れば昭和のお爺さんの部屋だってことぐらいわかるだろう。

窓の外を見ながら思わず笑ってしまった。

「あっ、タンチョウだ。鹿もいる。」

同行の友人が声を上げた。

「オオワシもいますよ。ほら、あそこに。」

そう言われても考え事をしていた頭では探すことができない。

どこにいるのかわからないのだ。

どこだどこだと探しているうちに、雪原が雑木林に変わった。

********************

「男の人ってバカよねえ。」

「なんで?」

「だって、こんな本や写真、いっぱいあるんだもの。」

美女がつぶやいた。

3日前のことだった。

突然彼女が言った。

「ねえ、あなたのお部屋、行ってみたい。」

ボクは自分の耳を疑った?

就職も決まってホッとした時期だった。

ボクたちはいわゆる彼氏と彼女という関係だったけど、取り立ててお付き合いをしているという風ではなくて、いつも会ってはお茶をしたり、食事をしたり、話題の映画を見たり、時には電車に乗ってちょっと遠くの公園へ行くような、そんな関係だった。

「どうして?」

「なんとなく、見てみたいの。あなたのお部屋が。」

「いや、困るよ。」

ボクは彼女の突然の提案を当然のように拒絶した。

「どうして?」

「散らかってるし。」

「誰かいるの?」

「えっ?」

「誰か、一緒に住んでる人でもいるの?」

当時は同棲という言葉が流行っていた。

「どうせい」

よくある未婚の男女が一緒に住むという、そういう時代だった。

「別に、いるわけないじゃん。」

「だったらいいじゃないの。」

「いやだよ。見られたくないし。」

今思えばおかしい話だ。

ふつうは男性が女性を自分の部屋に連れてきたがる。
下心たっぷりの男は、何とか理由を作って女性を自分の部屋に招き入れたくなるものだ。

それなにの彼女の方から男の部屋に来てみたいと言うのだから、世の男性諸君から見たら願ってもないチャンスだろう。

でも、ボクはちょっと違っていた。

ていうか、来られたら困る。

なぜなら、散らかってるのはもちろんだけど、いろいろと見られたくないものがあるからだ。

「大丈夫よ、私。別に驚かないし。男の人が何考えてるか、だいたいわかるし。」

「じゃぁ、どうして?」

「興味があるの。あなたに。」

3日後、彼女が部屋にやってきた。

ボクたちは、いわゆるそういう関係じゃなかったから、ボクは極めて紳士的に振る舞った。

「うわぁ、汚い。」

部屋に入るなり彼女は叫ぶように言った。

ボクはこの3日間、一生懸命部屋を片付けた。

なのに彼女はそのボクの部屋を汚いと言う。

確かに片付けたと言っても物は捨ててはいなかったので、部屋の隅の方に雑誌が積み上げてある状態だった。

「男の人ってバカよねえ」

「なんで?」

「だって、こんな写真や本、いっぱいあるんだもの。」

畳の上に置かれた男性週刊誌。

部屋の壁に貼ってあったリンゴのお姉さんのピンナップを見ながら彼女はそうつぶやいたのだった。

「こういうの、好きなの?」

「まあね、男だから。」

ボクはそう答えるしかなかった。

「でも、もう要らないでしょ?」

「どうして?」

彼女は一瞬口ごもったように見えたが、すぐにつぶやいた。

「だって、あたしが居るでしょ?」

「えっ?」

「あなたにはあたしが居るんだから、もう要らないわよね。」

「・・・・」

「こういうことは、何度も言わせないで。」

今思えば、実に積極的なアプローチだった。

つまり、ボクはナンパされたのだった。

「あたしが居るんだから、もう要らないわよね。」

どういうこと?

つまり、そういうこと?

いやいや、こっちにだって心の準備というものがある。

目の前の彼女は可愛いけれど、だからと言って今までのコレクションが要らないというわけじゃない。

「要らないって?」

「そうよ。捨てましょう。」

「いやいや、ちょっと待ってよ。捨てるだなんて。」

ボクは一呼吸おいてからこう言った。

「あのね、ここに居る彼女たちは、君よりもずっと前から居るの。癒してもらってお世話になってるんだよ。そんなに簡単に、はい、そうですかなんて、捨てられないよ。」

「ふ~ん、そうなんだ。」

彼女はいたずらっぽい目でボクを見ながら続けた。

「あなたって、意外と正直で義理堅いのね。」

「????」

「この写真の彼女たちを邪険にしないじゃない。」

「まあね。」

「そういう人なら安心だわ。」

「安心?」

「だって、そういう人なら浮気しないから。」

「浮気? ていうか、まだ付き合ってないし。」

ボクは焦った。

付き合ったという実感もないのに彼女から浮気という言葉が出るなんて。

「じゃあ、彼女たちも連れてきていいわよ。だけど、子供ができたらまた考えましょう。」

「どういうこと?」

「だって、子供が大きくなって、こういうのを見つけたら、あたし、何て言っていいかわからないから。」

ボクは返す言葉がなかった。

自分に子供ができたらなんて、そんなことを考えることすら超未来の話で、まるで自分のこととは思えなかったし、だいいち、どうして彼女と結婚するんだろうか。

自分自身寝耳に水だった。

「あたし、決めたのよ。あなたの奥さんになるって。」

「勝手に決めるなよ。ボクにだって考えがあるんだから。」

「あら、イヤなの?」

「イヤじゃないけど。」

「じゃあ、いいわね。」

そう言ってその日から彼女はボクの家に住みついた。

****************************

電車が駅に着いた。

北国からの帰り道、ボクは一人でスーツケースを押しながらマンションに向かう。

意外に早かったな。

そう思った。

何が早かったのかというと、
彼女がボクの前から姿を消したのが。

あれから社会に出て2年ほどしたときに、彼女は突然ボクの前から姿を消した。

「ちょっと家に帰ってくる。」

そう言って実家に帰って行ったのが彼女を見た最後になった。
彼女はそのまま帰らぬ人になった。

まだ籍は入れてなかったし子供もいなかったので、自然消滅とでも言ったらいいのだろうか。

でもボクはそれから毎年彼女の家に出かけては写真に手を合わせた。

30を過ぎたころ、彼女のお母さんがボクの顔を見て言った。

「ごめんなさいね。でも、もう忘れていいのよ。あなたは自分の人生を生きてくださいね。」

でもボクは義理堅い男だから、彼女に対する「義理」を果たさなければならない。

ていうか、彼女が突然いなくなって心にぽっかりと穴が開いてしまって、その穴が何年、何十年経っても埋まらないのだ。

一方的に押しかけてきて、わずか数年で一方的にいなくなってしまった。
そんな彼女が待ってくれている場所が、そろそろ近づいてきたな。

最近なんとなくそんな気持ちになって来て、早くその日が来ないか楽しみで待ち遠しくなる時がある。

「ただいま帰りました。」

帰ってドアを開けると必ずそうやって声をかける。

もちろん真っ暗な廊下の奥から返事はない。

手探りでスイッチを押して灯りをつける。

「わぁ、汚い部屋。」

そんなこともあったな。

あれ?

消し忘れて出かけたのかなあ?

隣の寝室に電気が点いていた。

そして壁にはリンゴのお姉さんが待っててくれた。

どうしたのだろうか。
今夜は何となくちょっと怒ってる顔をしている。。

「もう! 私をこのままにして出かけるんだから。恥ずかしかったわ。」

そうか、そうだったね。

消防設備の点検があったんだっけ。

見られちゃった?

「もう!」

そう言いながら、リンゴのお姉さんは「もう少し頑張ってね」とつぶやいた。

サイドテーブルの上の彼女は微笑んでいた。

いいなあ、君は。
昔のままで。

ボクはもうこんなにお爺さんになってしまったよ。

時間が止まっている君に言うのもなんだけど、

「もう少しだけ待っててくれるかな。やり残した仕事が終わったらそっちへ行くから。」

「そうね。その時はリンゴのお姉さんも一緒に連れてきていいわよ。義理堅いあなたは、どうせ捨てられないのでしょうから。」

「えっ?」

今なんて言った?

フォトスタンドの中の彼女はボクの方を見つめて笑っているだけだった。

※この物語はフィクションであり、登場する人物団体は実在のものとは一切関係ありません。

ということで、今夜はこの曲で締めくくりましょう。
この曲を聞いていたのは10代の頃。
すでに64歳になってしまった自分に驚くばかりです。

The Beatles – When I’m Sixty Four (Official Video)