さて、今夜は女性読者にご好評をいただいております連休恒例のプラトニックな官能小説のお話し。
矛盾があるなんて言わないで、お時間がある人だけ読んでくださいね。
ちなみに断食道場はなにぶん暇なもので、頭に浮かんだことを書き綴ったフィクションですからお間違いのないように。
では、はじまりはじまり。
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「あんたバカじゃないの?」
お店を出るなり彼女がボクに向かってそう言った。
街角の喫茶店。
「お会計500円です。」
コーヒー1杯250円。
ボクは財布を広げた。
バイト代が入ったので聖徳太子が2枚入っていた。
伊藤博文の姿は無い。
「あの、1万円でもいいですか?」
「あぁ、いいっすよ。」
軽いノリのお兄さん。
おつりの千円札を数える手元がぎこちない。
「はい、お釣りです。」
そう言って千円札の束を渡された。
ボクは念のために数えてみた。
1・2・3・4
10枚ある。
「?」
もう一度数える。
7・8・9・10
やっぱり10枚ある。
「1枚多いよ。」
そう言うとお兄さん一瞬ドキッとした顔をして、一緒に数えたらやっぱり10枚ある。
コーヒー2杯で500円。
1万円出して10500円おつりが来たらお店は大損だ。
「すいません。」
「いえいえ、よかったね気が付いて。」
「どうもありがとうございます。」
こんなやり取りがあって喫茶店を出た。
すると彼女が後ろから声をかけてきた。
「あんたバカじゃないの。もらっておけばいいのに。」
「いや、そうだけどさあ。」
アルバイトの時給が1時間500円だから、2時間分のバイト代になるのに。
もったいないことしたね。
彼女の言い分はそうだった。
まぁ、確かにそうなんだけどね。
ボクは苦笑いをするしかなかった。
それからボクたちは電車に乗ってデパートへ行った。
デパートの隣には映画館があって、そこでボクたちは「スターウォーズ」を見た。
映画の後、デパートの上の階のレストランへ入る。
都会の若者のお決まりのデートコースだ。
「ねえ、ここ、ちょっと高そうね。」
メニューを見ながら彼女が言った。
「大丈夫だよ。今日はボクが払うから。」
バイト代が入ったから懐は余裕だった。
「あ~ぁ、さっきの千円があったらなあ。」
彼女がそうつぶやいた。
この人、まだあのこと気にしてるんだ。
確かに千円は大金だけど、違うと思うんだよ。
相手の間違いなんだからさ。
そうじゃないんだよね。
ボクの心の中で違和感が芽生えた。
「もう、その話は終わりにしようよ。」
その時の食事はあまりおいしくはなかった。
ていうか、何を食べたのかも記憶にない。
そしてボクは彼女と次のデートをすることはなかった。
* * * * *
子供の頃、東京育ちのボクは電車に乗るのが遊びだった。
1日10円の小遣いを握りしめては電車に乗る。
終点に着いて反対側の電車に乗ると、地元の駅の1つ手前の駅で降りる。
そうすれば10円の切符でそのまま降りられた。
私鉄はそれでよかった。
ある時、地下鉄に乗ってみたくなった。
1日10円の小遣いを数日貯めて私鉄に乗って地下鉄の駅へ行く。
そして何も知らないボクは切符を買って地下鉄に乗った。
この地下鉄は親と乗ったことはあるけれど、地下鉄独特の匂いといつもと違う電車にワクワクとした。
この電車で終点まで行って帰って来て1つ手前の駅で降りればいい。
そう思って終点まで行ったら、悲劇が待っていた。
なんと、折り返しの電車は反対側のホームだったのだ。
降りた客は全員いったん改札口を出なければならない。
電車は客を降ろした後、奥まで行って反対側のホームに戻ってくる。
私鉄とはちがっていた。
駅員さんがこちらを見ている。
ボクは切符を渡して改札口を出た。
「さてどうするか」
反対側のホームの切符売り場で途方に暮れた。
路線図とにらめっこしながら、さっき駅員さんに追加のお金を払ってしまったので手には10円しかない。
そしてその10円は地下鉄の駅から私鉄に乗り換えて家に帰るための10円だ。
ましてここからの地下鉄の切符は10円じゃなくて20円だった。
ボクは途方に暮れていた。
どのぐらいの間、切符売り場で途方に暮れていたのだろうか。
「ねえ、ぼく、大丈夫?」
後ろから声をかけられた。
ロングヘアーにワンピースのお姉さんがそこに立っていた。
「うん」
そう答えるしかなかった。
よほど不安そうな顔をしていたのだろう。
「どこまで行くの? お姉ちゃん切符買ってあげるね。」
お姉さんはボクの顔を見ながらそう言った。
「ねえ、お家どこ?」
ボクはすかさず
「いけぶくろ」
と答えた。
するとお姉さんはお財布から10円玉を数枚出して池袋までの切符を買ってくれた。
「はい、どうぞ」
ボクはびっくりした。
「ありがとう」
というのがやっとだった。
「気を付けて帰るのよ。じゃあね。」
お姉さんはにっこり笑うと改札口の中へ消えて行った。
=渋谷から20円区間ゆき=
ボクはじっと掌の中の切符を見つめた。
結局、その件があってからボクは電車遊びをやめた。
* * * * *
学校からの帰り道、気が付くとバスは長く停まっていた。
途中のバス停の割には停車時間が長い。
ふと見ると、前の方で小学生らしい子供が運転士さんと話している。
どうしたのだろう。
文庫本に夢中になっていたボクは何だか状況がつかめない。
前の方に座っていた美女が席を立って運転席へ行く。
小学生と運転士さんと二言三言話しをして彼女がカバンの中から財布を出して小銭を何枚か運賃箱へ入れた。
小学生はぺこりと頭を下げると降りて行った。
バスは発車した。
終点に着いてバスを降りたところで、ボクはその美女に声をかけた。
彼女は同じクラスの学生だった。
「ねぇ、さっき、バスの中で何してたの?」
「あぁ、あの子、お金持ってなかったのよ。忘れちゃったか落としちゃったか。」
「そうなんだ。」
「運転士さんがよく探すようにって言ってたけど、どうも見つからないみたいで。」
「で、君が払ってあげた。」
「そういうこと。」
駅前の雑踏は夕方の混雑が始まっていた。
家路を急ぐ人たちが駅へ向かって流れていく。
「ちょっと時間ある? お茶でも飲まない?」
月並みなセリフだけど、ボクは声をかけた。
「いいわよ。」
チェーン店のコーヒー専門店に入る。
彼女とは教室で話をしたり、時々学校の食堂で顔を合わせたことがある程度で、こうして2人で面と向かうのは初めてかもしれない。
「何にする?」
小腹が空いている時間帯だった。
「あたし、コーヒーゼリー。」
「じゃあ、ボクもそれにする。」
今まで全然気にかけたことはなかったけど、こうして目の前で見るとなかなかチャーミングで可愛かった。
「ボクさぁ、本に夢中になってて、最初は気が付かなかったんだよ。で、なんだか前の方でもめてるでしょう? それも子供が」
「そうね、あの子、降りようとしたらお金が無いことに気づいて、かなり慌ててたの。」
「だから、君が助けてあげた。」
「別に助けてあげたつもりはないわ。ただ、他のお客さんにも迷惑がかかるし、可愛そうで見てられなかったのよ。」
テーブルにコーヒーゼリーが運ばれてきた。
この店のコーヒーゼリーはゼリーの上にバニラアイスがのっている。
「ねぇねぇ、見て。ここ、凍ってる」
小さなグラスの中で、アイスが上にのったゼリーの部分がシャリシャリになっている。
「ここ、おいしい。」
彼女は無邪気にコーヒーゼリーと戯れていた。
その姿にボクは何となく好感を持った。
他愛もない会話が続いた。
「そろそろ帰ろうか。」
ボクから声をかけた。
これ以上引き留めちゃ悪い。
レジへ向かう。
お金を払おうとポケットの中を探る。
指先に500円玉が触れた。
「いいよ、ボクが払うから。」
そう言ってボクはちょっと自慢気に500円玉を彼女に見せた。
「ほら、これ!」
「あら、もう持ってるの? 私、まだもらったことない。」
500円玉は数週間前に世に出たばかりだった。
「そうなんだ。じゃあ、これ、君にあげる。」
「うれしいわ。じゃあ、ここ、私払うね。」
彼女は財布から岩倉具視を出してお会計を済ませると、ボクの500円玉を大事そうにしまった。
「ねぇ、あなたお家どちら?」
ボクは駅の名前を言った。
「あら、反対側ね。」
改札口から地下道を通ってホームに上がるとちょうど彼女が乗る電車が入ってきた。
「じゃあね、バイビー!」
美女はにっこりと微笑むと、電車に乗り込んだ。
そしてドアが閉まる。
ボクは片手を上げながら彼女が走り去るのを見送った。
* * * * *
日曜日だというのに朝からバタバタと音がする。
「じゃあね、行ってきま~す!」
「忘れ物ないの?」
聞きなれた美女の声がする。
「ないよ~」
「お弁当持ったの?」
「持ったよ」
「お金は? 持ったの?」」
塾へ出かけようとする子供の動きが止まった。
子供は毎週日曜日、電車に乗って隣町の塾へ通っている。
「あっ! 忘れた。」
「ほらね。」
勝ち誇ったように子供を見下ろす美女。
エプロンのポケットからお財布を取り出すと、百円玉を数枚渡した。
「お金忘れると、歩いて帰ってこなきゃならなくなるぞ。」
私が声をかけると子供の表情が変わった。
「だいじょうぶだよ、パパ。」
子供はカバンに付いた小さなマスコットのぬいぐるみを差して、
「この中に、何かあった時のためにって、ママが500円入れてくれてるんだ。」
得意そうに言った。
「じゃあ、行ってくるね。」
「気を付けてね。」
「しっかり勉強しろよ。」
「うん」
美女と二人で子供を見送った。
穏やかな春の日曜日。
「ねえ、あなた。今日のご予定は。」
「特にないけど、一緒に買い物にでも行くか。」
「そう、うれしいわ」
買い物の途中、商店街の喫茶店に入る。
この商店街にも新しい喫茶店ができていた。
「二人で喫茶店に入るなんて久しぶりね。」
目の前の美女がそうつぶやく。
「そうだね。BGMも竹内まりやだよ。」
「ほんとう。よく聴いたわね。懐かしいわ。」
にっこりと微笑む美女。
2人のテーブルにはたっぷりとアイスクリームがのったコーヒーゼリーが置かれていた。
真っ赤なさくらんぼがひとつずつ。
私は自分のさくらんぼを摘まむと、そっと彼女のアイスクリームの上にのせた。

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